【オフィスのアネモネ】第29話「最後の抱擁」

オフィスのアネモネ

「坂下さん、来月で仕事辞めるみたい」

 

同じ課の女性から聞いた言葉が忘れられない。
先日から、長期で出張している坂下。
辞表を提出し、あとは引き継ぎなどが終わって、今のプロジェクトが一区切りするタイミングで会社を辞めるそうだ。

 

「新しい会社も決まっているの?」

「さあ、そのあたりは詳しくわからないけれど。どうしたのだろう、急に」

 

席が近い女性たちの会話が聞こえてくる。
志織も知らなかったことだ。

山本からプロポースの含めた交際申し込みがあり、明確な答えは返せてはいない。
ただ一歩ずつ彼と恋人らしい時間を過ごすようになった。
坂下のことは、仕事だけの付き合いになり、彼の私生活に関しては知らない。

 

「明日、直帰みたいだよね。引っ越しの手続きとかするのかな」

「へえ、何かあったのか気になるね」

 

女性達のうわさ話から、明日坂下が仕事終わりからそのまま家に帰ることを知った。

もう、関係ないのだから――――。

志織は気持ちが膨らみそうになるのを我慢した。
もう彼のことは、熱烈に愛することはなくなった。
その気持ちは、徐々に山本へ向いている。

けれど一度でも真剣に愛した男性がどうなるのか気になる。
彼もまた幸せになれるのだろうか。

もう遠くなった過去を思いだし、坂下のことを思った。

 

*****

 

「井口さん」

「坂下さん!どうして……」

「忘れ物を届けに。おしかけてごめんね」

 

自宅前アパートに来ると、坂下がいた。
その顔はすっきりしたものだった。

携帯の着信を拒否してしまってから、彼とは連絡をしなかった。
だが、志織は時計を忘れていたことを思い出した。

 

あの時計は大切なものだ。

大学を卒業してから、両親に買ってもらったもの。
坂下の家を飛び出し、数日たってから忘れたことに気がついたのだが、もうあの部屋に行くことはないので諦めていた。

 

「ありがとうございます……、助かりました。大切なものだから」

「ああ、そう言っていたから。悪いなと思って、届けにきた」

「あの、坂下さん……会社を辞めてしまうのですか?」

 

志織はとっさに思ったことが声に出てしまった。

 

「会社で聞いた?」

 

はっと自分でも驚いて口ごもる。
坂下は志織の行動を不思議に思うようでもなく、落ち着いた態度だった。

 

「はい、辞表を出されたってきいて」

「うん、出した。今日も部屋の片付けをしていた」

「引っ越しされるのですか?」

「君が俺から離れて、自分がひどいことをしていたなっていまさら思い返したよ。井口さんの優しさに甘えてしまって、結局君のほしい答えもあげることができなかった」

「引っ越しってもしかして……」

「サラのところにね。少し前に、身の回りのことをしている人が辞めてしまったのを話しただろう?だから、俺がサラのところにいって、彼女を支えようって思った」

 

坂下は落ち着いた大人だとずっと思っていた。
だが、今目の前にいる彼は少年のような若々しさがあった。
恋をする少年のように、何かふっきれたようなすがすがしさがある。

 

「この年齢で仕事を辞めるっていうのは、思い切りが必要だなって思った。でも、辞表だしてから気がついたよ。簡単に仕事辞められるんだなって」

 

声を出して笑った坂下は、遠くを見つめた。

 

「坂下さんは、答えを決めたのですね」

「うん。サラに向き合おうって。気持ちをぶつけてみるけれど、彼女には届かないころもあるだろうし、自分の望む夫婦の形ではなくなる可能性もある。ただ、彼女を支えて、彼女と一緒に時間を過ごすことが自分には必要だと思ったよ。それは、井口さんが一生懸命俺に思いを伝えてくれたからだと思う」

「わたしが一方的に好きになって、坂下さんを追いかけて。最後は逃げてしまいました」

「井口さんのまっすぐさに、俺も弱腰でいるのがかっこ悪いって思わされた。俺を好きになってくれて、ありがとう。本当に、君を傷つけてごめん」

 

―――ああ、やっぱり優しい人だ。

志織はやはり彼を嫌いにはなれないと思った。
せき立てられるような情熱は、彼をみて感じることはもうない。
しかし彼の好きなところはこういうところだったな、と振り返ることはできた。

 

「わたしだってあなたを傷つけました。ありきたりな言葉ですけれど、がんばってください」

「ありがとう……、井口さんもがんばって」

 

どこからともなく、お互いを抱きしめた。
これでもう二人きりで会うことは、二度とないだろう。

 

「はい、さようなら」

「さようなら」

 

そっと離れると、志織は部屋に入っていく。
振り返らなかった。
坂下もきっと振り返ることなく、まっすぐ帰っていくのだろう。

 

全部がすっきりした、というほどキレイな恋ではない。
本当は、志織だって腹がたつこともあったし、文句を言いたい気持ちもあった。

だが、坂下の顔を見ると本心は言えないままだ。
彼は大人だから、自分も大人にならなくてはならない。
別れ際も無様な姿がみせたくはないのだって、最後のプライドだ。

 

「好き、でした。すごく……好き」

 

志織は部屋に入り、声を殺して泣いた。泣くのはこれで最後。
つらい気持ちも、楽しい気持ちも、名残おしい気持ちもたくさんある。

彼と付き合った時間は、それほど長くない。
悩んで苦しんで、自分の嫌な感情をたくさん知った恋だった。

少し大人になれた気がした、恋だった。

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