著者:森絵都 2013年12月に文藝春秋から出版
漁師の愛人の主要登場人物
本田紗江(ほんださえ)
ヒロイン。聴覚を生かして音楽関係の創作を請け負う。他者からの干渉に対して無防備。
長尾修(ながおおさむ)
紗江と不倫中。サラリーマンから漁師へ転身。物腰が柔らかく遊び慣れている。
長尾円香(ながおまどか)
長尾の妻。大手食品メーカーの令嬢として甘やかされて育った。
ダイキ(だいき)
長尾の後輩。妻の春子とともに地域に溶け込もうと試行錯誤する。
ナガミネ(ながみね)
多数の船を所有する網元。漁業従事者たちのあいだで顔が広い。
漁師の愛人 の簡単なあらすじ
フリーランスで採譜の仕事をしていた本田紗江は、妻子がいると知りながら長尾修との関係を惰性で続けています。
離婚して一緒になるという彼の言葉を信じて彼の郷里の港町までやってきますが、漁師とその妻たちからはあからさまな批判を浴びせられることに。
数少ない理解者を得つつ、ようやくふたりはカップルとして公の場に出るのでした。
漁師の愛人 の起承転結
【起】漁師の愛人 のあらすじ①
本田紗江の仕事は曲の主旋律をたどって若干のアレンジを加えながら、ピアノの鍵盤で表現できる音へと置き換えていくために「採譜」と呼ばれていました。
愛とか夢とかの歌詞を並べたアイドルグループのポップソングから、それほど上手ではない楽団の演奏まで。
依頼は途絶えることもなく舞い込んできて、独立してからは請け負いという形でうまく運んでいます。
必要なのは五線譜と使い慣れた筆、そしてあらゆる雑音をシャットアウトできる耳だけ。
ピアニストの友人に紹介してもらったのは音楽プロダクションでプロデューサーをしている長尾修、既婚者としりつつ知りつつも深入りが止められません。
長尾は妻の円香に相当な額の慰謝料を提示したようですが、実家が裕福なために調停は難航しているようです。
そんな最中に勤め先が倒産した長尾は、業界とは縁を切って日本海に面した生まれ故郷へのUターンを決意しました。
都内での暮らしが長くて実家との縁が薄い紗江は、半年程度の旅行のつもりでついていきます。
【承】漁師の愛人 のあらすじ②
足場の定まらない船上での肉体労働は相当に過酷なはずですが、長尾は東京時代とは別人のように生き生きとしてきました。
紗江の方は日中はパソコンで作業、接触を持つのは宅配スタッフか図書館の司書くらいで話し相手がいません。
古い民家が連なる裏通りは井戸端会議で集まった主婦でいっぱい、このあたりの船の名前はだいたいが〇〇丸、紗江は漁師の愛人… 彼女たちがひそかに付けた「二号丸」というあだ名は、少しずつ紗江の心をかき乱していきます。
朝早くに長尾の乗った「新志丸」を見送った紗江、このまま彼が帰ってこないのではと不安に襲われることもありました。
先日には投網の最中に足を滑らせて転落したそうで、ライフジャケットを装着していなかったら大ごとになっていたでしょう。
そんな時には防波堤の先端で膝を折り曲げて、青々とした海を眺めていると幾分か気持ちが落ち着いてきます。
一定のリズムで寄せては引いてを繰り返す波の音の鮮明さと美しさは、バッハやモーツアルトにも生み出せません。
【転】漁師の愛人 のあらすじ③
軽トラックの助手席に紗江をのせた長尾は、「根まわし活動」と称して地元の仲間たちを紹介してくれました。
失業中の長尾に修行をさせてくれた師匠、安価で中古の船舶を譲ってくれた組合長、津波に強い格安の借家を探してくれた兄貴分… 血縁者以外にも恩義のある人は多く、義理を果たすべき相手は後を絶ちません。
その中でも特に紗江と意気投合したのは同世代かと思われる夫婦、夫のダイキは長尾が面倒をみている漁業研修生。
ダイキは大阪で会社員をしていた時に出社拒否になってしまいましたが、妻の春子が後継者育成のための補助金制度を調べてあげたそうです。
その春子は長い髪の毛を無造作にまとめて、カッパを羽織って荷揚げの手伝っていました。
この港では「女は家」という古くからの慣習がいまだに残っていましたが、よそ者の春子の行動に対しては見て見ぬふりをしています。
そんな最中にこの辺り一帯の顔役・ナガミネの喜寿のお祝いをすることになり、自分たちの存在を認めさせるには絶好の機会でしょう。
【結】漁師の愛人 のあらすじ④
親戚一同はもちろんのこと、小型船組合の加盟者からその家族までがナガミネ邸に集まって盛大な宴会が始まりました。
老人たちは紗江の体をなでまわすように、彼らの妻たちは敵意をむき出しに。
例によって男性客はお酒を飲んでいるか歌をうたっているか、料理の準備やお酒のお酌配膳などはすべて女性陣に押し付けています。
どちらのグループにも入れてもらえない紗江と春子、さっきまで腕ずもう大会に参加していたはずの長尾とダイキの姿はいつの間にかありません。
せめて洗い物でも手伝おうかと紗江たちが台所に向かうと、ヒソヒソとした話し声が。
円香が更年期でまいっていること、奥沢の実家に戻っていること、息子がアメリカのボストン高校に留学していること。
口ぶりからして長尾から近況を聞かされているようで、夫婦がいまだに連絡を取っていることは明白でしょう。
紗江と長尾と円香と、いびつになって絡み合った3人ですが正しい海路を行けば沈むことはありません。
大勢が息を殺して見守る中、酔いつぶれた長尾を抱きかかえた紗江は「ニ号丸、発進」と自宅に連れ帰るのでした。
漁師の愛人 を読んだ読書感想
誰もが口にするポピュラーソングから、カセットテープに録音されたままで忘れられたメロディーまで。
主人公の紗江が頼まれれば必ず採譜を引き受けるのは、どれほどつまらない楽曲でもすくい上げるべき価値があるからなのかもしれません。
音楽業界のクリエイティブな一面を描いた物語かと思いきや、プロデューサーとの略奪愛の揚げ句に漁村に逃避行してしまうとは予測できませんでした。
都会ではお疲れな長尾やダイキが、海の男になった途端に息を吹き返すのは皮肉なものです。
男尊女卑で排他的なコミュニティーに一石を投じる、春子のようなキャラクターにもこれからの地方活性化のあるべき形が伝わってきます。
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