【ネタバレ有り】侏儒の言葉 のあらすじを起承転結でネタバレ解説!
著者:芥川龍之介 2018年11月に株式会社KADOKAWAから出版
侏儒の言葉の主要登場人物
芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)
本作の作者。夏目漱石に師事。『羅生門』『鼻』といった歴史物で若くして文壇へデビューし脚光を浴びる。自伝的な『歯車』『或阿呆の一生』などの作品もある。短編を得意としたが、自伝的エッセイも多数手掛ける。晩年は作家として行き詰まりを覚え、体調を崩すしただけでなく義兄の自宅が全焼した事件の後始末など精神的な負担が増大する。35歳の若さで自殺。
侏儒の言葉 の簡単なあらすじ
「朱儒の言葉」は私(芥川)の思想を伝えるものではありません。思想の変化を窺わせるものです。それは一本の草ではなく、一すじの蔓草が幾すじもの蔓を伸ばしているかも知れないのです。蔓は「ヘラクレス星雲」をはじめ、「軍人」「政治的天才」「民衆」「人生」「二宮尊徳」「経験」「好人物」「教育」「神秘主義」など様々な「タイトル」へ絡んでいきます。
侏儒の言葉 の起承転結
【起】侏儒の言葉 のあらすじ①
ヘラクレス星群の光が地球へ達するのに3万6千年かかります。
宇宙はそれだけ大きい。
宇宙から観ると太陽ですら燐火(りんか:墓地などで自然に燃える青白い炎)に過ぎません。
ましてや地球はもっとちっぽけな存在でしょう。
しかし地球上で起こっている出来事と遠い銀河で起こっている出来事になんら変るところはありません。
ひょっとすると、明滅する星は人が瞬きをするように感情を表わしているのかも知れません。
道徳は良心を造りますがいまだかつて良心が道徳を造ったことは一度もありません。
侏儒は祈ります。
どうか私を一粒の米がないほど貧乏にはしてくださいますな。
また熊掌(ゆうしょう:熊の手を食材に使った珍奇料理のひとつ。
時間と高度な技術を必要とする)に飽きるような富豪にしないでください。
天秤の両端である神と悪魔、美と醜には中庸の態度を取らなければなりません。
そうでなければ如何なる幸福も得ることはできません。
軍人は小児(しょうに:子供)です。
喇叭(らっぱ)や軍歌に鼓舞されて何も考えず欣然(きんぜん)と敵に当ります。
正義は武器に似ています。
武器はお金次第で味方にも敵にもなります。
同様に正義も理屈次第で敵にも味方にも買われます。
古典の作者が幸福なのはすでにこの世にいないからです。
遊泳を学んでいない者に泳ぐことを強要するのは無理なことですが、我々は生まれたときからこういった莫迦げた命令を負わされています。
人生は複雑ですが、複雑な人生を簡単にするのが暴力なのです。
【承】侏儒の言葉 のあらすじ②
昔から政治的な天才は民衆が何を望んでいるかを汲んで自分の政治信念とすると思われていましたが、実は正反対だったのです。
政治的な天才は彼の意思を民衆の意思のようにしてしまうのです。
それゆえ彼は名優なのです。
民衆は大義を信じています。
政治的な天才は民衆を支配するために大義の仮面を用いなければなりません。
ただし永久にこの仮面を外すことはできません。
もし外せばいかなる政治家といえども失脚してしまいます。
食欲は死よりも強いのです。
愛国心、宗教的感激、人道的精神、名誉心も死より強いです。
つまり情熱が死を上回るからです。
ただし死に対する情熱は例外です。
人生は地獄よりも地獄的です。
地獄の苦しみは一定の法則がありますが、人生が与える苦しみは不幸にしてそれほど単純ではありません。
例えば餓鬼道では目前の飯が炎に包まれますが、人生が与える苦痛では簡単に飯が食べられる場合があります。
しかしその後胃腸カタルなどの腹痛に苛まれないという保証はありません。
私は子供の頃、二宮尊徳ほどの貧困家庭に生まれなかったのを悔いていました。
幼少の尊徳は昼間には農作業の手伝い、夜は草履を造っても独学で勉強を続けました。
尊徳の勉強に僅かの便宜を図らなかった尊徳の両親は批判されてしかるべきです。
私達はそのことを忘れています。
人生を幸福にするためには雲の光、竹の戦(そよ)ぎ、群雀(むらすずめ)といったあらゆる日常の瑣事(さじ:取るに足りないこと)を愛さなければなりません。
しかしあらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければなりません。
【転】侏儒の言葉 のあらすじ③
親は子供の教育に適しているでしょうか。
たしかに子供に対する母親の愛は利己心のない愛ですが、この愛が子供に与える主な影響は子供を暴君あるいは弱者にしてしまいます。
我々はやりたいことが出来るわけではありません。
出来ることをするだけです。
これは我々個人だけではありません。
我々の社会も同じことです。
おそらく神も希望通りにこの世界を造ることは出来なかったでしょう。
経験ばかりに頼るのは消化力を考えずに食物ばかりに頼るものです。
また経験を無駄にせず能力に頼るのもやはり食物に頼り、消化力ばかりに頼るものです。
好人物とは天上の神に似ています。
歓喜を語るのに好い、不平を訴えるのに好い、そしていてもいなくても好いのです。
もし正直になるとすれば何人も正直になれていないのを見出すでしょう。
だから正直になることは不安です。
理想的な兵卒というのは上官の命令に絶対服従します。
つまり理想的兵卒は理性を失わなければならないのです。
軍事教育というものは結局、軍事用語の知識を与えるものに過ぎません。
軍事用語は学術用語と異なって大部分は通俗的用語です。
だから軍事教育は事実上存在しないのです。
文章の中にある言葉は辞書の中にある時よりも美しさを加えていなければなりません。
【結】侏儒の言葉 のあらすじ④
文を作るのに欠いてはならないものは何よりも創作的情熱です。
あらゆる古来の天才は我々凡人の手の届かない壁上に帽子をかけています。
もっとも踏み台がなかった訳ではありません。
踏み台だけはどこの古道具屋にも転がっています。
最も賢い処世術は社会的因襲を軽蔑しながらしかも、社会的因襲と矛盾しない生活をすることです。
ある物質主義者の信条は神を信じてはいませんが神経を信じていることです。
阿呆は自分以外の人々のことを阿呆と考えています。
我々に武器を執らしめるものはいつも敵に対する恐怖です。
しかもしばしば実在しない架空の敵に対する恐怖です。
万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖です。
道徳的に自殺の評判が悪いのは偶然ではないかもしれません。
何人も偶像を破壊することに依存はありません。
同時に彼自身を偶像にすることにも依存はないのです。
神秘主義は文明のために衰退しません。
むしろ神秘主義に長足の進歩を与えます。
古代人は我々人間の先祖がアダムであると信じていました。
すなわち創世記を信じていたというわけです。
現代人は既に中学生でさえ、人間の先祖が猿であると信じています。
すなわちダーウィンの著書を信じているというわけです。
書物を信じることは古代人も現代人も同じです。
しかし古代人は少なくとも創世記に目を曝していました。
しかし現代人は少数の専門家を除いてダーウィンの著作を読まないにもかかわらず恬然(てんぜん:平気)とその説を信じています。
また地球は丸いということさえ本当に知っている人は少数です。
大多数の人は何時か教えられたように、丸いと一図に信じているのに過ぎません。
侏儒の言葉 を読んだ読書感想
「侏儒」とは背の低い人に対する蔑称の他に思慮の浅い人を揶揄する意味があります。
芥川は後者の意味に使っています。
「朱儒の言葉」はタイトルの付いた沢山の小文で構成されています。
芥川も冒頭で示唆していますが、タイトルとタイトルの間が「幾すじもの蔓」で結ばれているようです。
私は最初、ざっと目を通したときは単なる小文の「集合体」のようなイメージがありました。
しかし何度か読み返す内に「朱儒の言葉」が一つの作品として浮かび上がってきました。
読み込んでいく内にタイトルとタイトルの間に蔓が見えてきたように思えたのです。
この蔓は現代社会になって、ますます地球規模で様々なところに張り巡らされているのかも知れません。
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