その音が聞こえてきたのは、朝方のことであった。
年を取るとトイレが近くなるというが、俺ももう夜寝始めてから数えて3度目。
寝る前に行ったのも合わせると4度目のトイレとなる。
寝所から襖を開けてキッチンの横を通りトイレに向かう。
廊下を通るときふとあきらくんの寝ているはずの部屋から音が聞こえてくるのが聞こえた。
何か喋ってるようにも聞こえるしうめき声にも聞こえた。
「あきらくん?」
もし具合でも悪くしているというのなら、放っておくわけには行かない。
少々無礼なような気もしたが、ドアの前で聞き耳を立てる。
中は軽く暖房が効いているため、ドアはしまっているが、その声は聞き耳を立てると存外鮮明に聞こえた。
「……つい」
先程よりもはっきりとした口調であきらくんの声が聞こえたが、次に聞こえてきた声に俺は耳を疑った。
「めて……熱い。お父さん、やめてよ」
はっきりと聞こえてきたその言葉に、俺は筆舌に尽くしがたい怒りの念と憐憫の気持ちが同時にこみ上げてきて、次の瞬間には思わずドアを開け、あきらくんの寝ている布団の方へと駆け寄っていた。
あきらくんの方顔中を汗びっしょりに濡らし、苦しそうな表情で寝ていたが、俺が入ってきたことにいち早く気づき、ゆっくりと目を開ける。
「……んん、あれ?おじさん」
起きた時には完全に苦悶したような表情はなくなり、それでいて昨日の非常に不安そうな表情も随分和らいでいて、今はきょとんとした表情でこちらをまっすぐと見つめていた。
その顔に俺は次になにを言えばいいかわからなくなる。
だが、とにかくこの子の力になりたいという気持ちを誤魔化す気にもなれなかった。
「いや、あきらくんの部屋からうなされているような声が聞こえてきたからつい心配になってしまって」
嘘偽りない真実を告げると、あきらくんは少々バツが悪そうに顔を俯ける。
「……聞いていたの?」
なんとなく聞かれたくないことであったのだろう。
だが、俺にはその気持ちが痛いほどに分かった。
父から傷つけられても誰にも相談できない苦しみ、そして無力感と絶望感。
アキラくんはこの年齢にしてそれを味わっているのであろう。
そしてそれは俺がかつて味わった感覚そのものだった。
「あきらくんはお父さんから熱湯をかけられていたことがあるのか?」
あきらくんはその質問に答えなかったが、もうその沈黙が答えであった。
俺は言いようのない憐憫の気持ちで胸がいっぱいになる。
「そうか……。あきらくん、実は俺も昔虐待を受けていたんだ」
そうつぶやくと、あきらくんは驚いたように俯けた顔をこちらに向け、目を見開く。
「おじさんも……?」
「そう、ほら。この右目のやけどがそうだ。俺が5歳の頃、俺はうっかりお父さんが飼っていた犬を散歩中に逃がしてしまっていたことがあったんだ。家から帰ってきてそれをお父さんに言うとお父さんは鬼みたいな形相で俺を殴った。……一度や二度じゃなくな。犬一匹も見ておけないような役に立たない目はこうしてやるって言って俺の右目に熱湯を注いだんだ」
「……おじさん」
あきらくんは俺がずっと話している途中黙ってそれを聞いていたが、やがて泣きそうな目で俺の話に応えた。
「……おじさんそのとき熱かった?」
あきらくんのその言葉に俺はちょっと苦笑いをした。
あきらくんを慰めるためにやってきたのに、まるであきらくんに慰められているような気がしたのだ。
「あぁ、もう何十年も前の話だがあの時の感覚は忘れようったって忘れられるものじゃない……。だからその、アキラくん。きっと今は誰にも話す気になれないっていう気持ちは俺にも痛いほどわかるよ。だから、俺も無理には聞かない。」
「……」
俺はその時の感覚を思い出しあきらくんはその話をずっと黙って聞いていた。
俺はそれに気づいてわれに返ってあきらくんに向き直る。
「あれ、変だな……。この話は誰にもするつもりはなかったんだがなぁ……。すまん、忘れてくれ」
なんとなくバツの悪い気がして俺はあきらくんに忘れるようお願いし、「邪魔したな」と声をかけて出ていこうとした。
があきらくんはすぐベッドから起き出して俺を服の裾を引っ張って引き止めた。
俺が振り向くとアキラくんは首を横にブンブンと振っている。
「僕も誰にも言えなかったやけどについて話すからそれならいい?」
あきらくんのその言葉に俺は非常に驚いた。
というのも俺はやけどを負って、この方自分のやけどについて誰かに語ったことなどなかったし、語ろうなどという気持ちになったことも一切なかった。
しかしこの目の前の少年は、その自らの体に残る虐待の証拠を俺に話してくれるという。
俺はあきらくんが俺のことを信頼しているということを感じた。
その事を語るのにどれほどの勇気と信頼が必要であろうかと思うと、俺はその覚悟に応えるべきだと思った。
「わかった、聞かせてくれるか」
「じゃまずおじさんにも僕の背中のやけど見せるよ」
ぎこちなくまるで傷を舐め合う二匹の犬のような近づき方であるが、確実に俺と亮くんの間に絆ができている。
俺はあきらくんの話を聞きながらそう感じるのであった。
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