【オフィスのアネモネ】第4話「瞳の奥の色」

オフィスのアネモネ4話

 今日は予定がない。坂下と小料理屋で食事を一緒にしてから、志織は仕事以外のことを
彼に話すようになった。もともと自分にそれほど自信がなく、すぐ落ち込んでしまう弱い
自分。そんな自分を彼の前では自然と出すことができる。
 ありのままの自分でいても、彼は否定しない。優しく勇気づけてくれるのだ。自分が思
いもしなかった励ましで、否定する自分のこころを溶かしてくれる。
「はあ、休日は会えないから……」
 会えないとしんみりした気分になる。ちょっと前までは、仕事が嫌でたまらなかった。
仕事のやりがいはあっても、自分の力のなさに毎日が憂鬱だった。だが、彼に相談をする
ようになって自信がついた。
自信がつけば、自然とやるべき仕事がわかってくるようになった。嫌みをいう女性の先
輩も、怒る回数が減った気がする。
「お洗濯ものも終わったし、買い出しに行こうかな」
 生活にメリハリがつくようになると、片付けもままならなかった自室もきれいになる。
部屋の汚れはこころの荒れ具合をあらわすと聞いたことがある。土日に家事をこなし、や
るべきことも終わった。こころに余裕がでる。今日は奮発して、おいしい夕飯でも作ろう
かと思い立った。
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 いつも買い物に行くのはスーパーだ。自宅のアパートに近くに歩いて十分ほどのところ
に、大手のチェーンストアがある。今日は天気がいい。少し足を伸ばしてみて、行ってみ
たことがないところに行こうと思い立った。
 スマートフォンで、周囲の地図を検索してみる。すると、近くに商店街があることがわ
かった。
「甘味喫茶もあるのか、おいしそう」
 ネットにアップロードされた、スイーツの写真は色とりどりだ。口コミも評判がよく、
昔ながらのお店がいくつも点在しているらしい商店街。
大通りからまっすぐ歩いて、少し奥まった道を抜けると、レトロな商店街がみえた。夕
食を買いに来ているのだろう、主婦はもちろん若い家族も目立った。
 のんびり歩いていると、古い書店が気になった。二階建ての白い建物で、地下にはレコ
ードや楽器、CDも販売しているようだった。CDなんて買うことはしばらくしていない。
ほとんどがスマートフォンで完結するようになってしまい、音楽も買わなくなってしまっ
た。だが、たまにはいいだろう。
 階段をおりていくと、棚にずっしりつまったCDジャケット。店内にはひとりの男性がい
た。
「坂下さん……?」

「ん……」
 思い焦がれる上司がいた。会えないと気持ちは募るし、会えればこころが熱くなる。メ
イクをちゃんとしてくればよかった。買い物するためだったから、カジュアルな服装で、
ナチュラルメイクだ。
「井口さん、こんにちは」
 驚いたように顔をあげた坂下だったが、すぐに笑顔を向けてくれた。志織は坂下の近く
へ寄っていった。彼はクラッシックコーナーを見ていた。手にはパッヘルベルの「カノン
」が収録されたCDを持っていた。
「クラッシックよく聴くのですか?」
「そこまで詳しいわけではないけれどね、これは有名な曲だし、お酒飲みながら聴くのも
ありだなって思ってね」
「それはすてきです」
 坂下の趣味についてよく知らない。小料理屋では、お酒を飲むのが好きだと言っていた
。強くはないが、ほろ酔いの状態が心地よいという。日本酒はもちろん、ワインも飲むと
いう。たまにスーパーで買うごほうびのチーズとクラッカーは格別だと笑っていた。
「小さいころは、ピアノを少し習っていて。今はぜんぜん指が動かないですけどね」
「俺も音楽はやっていてね。知り合いが音楽を専門にやっていたから、影響うけたのかも
しれないね」
「今は?」
「忙しさにかまけて、ぜんぜん」
 志織は坂下がみていたCDの隣にあったジャケットに目を向けた。
「この女性ヴァイオリンリスト、きれいな方ですよね。このまえテレビで特集された番組
を見ました。今はヨーロッパに住んでいて、あちらの楽団でがんばっているみたいで。あ
こがれちゃうな」
 志織が見ていたCDは、クラシック界でちょっと話題になったひとだった。映画の挿入歌
に使われていて、美人ゆえに雑誌などで取り上げられていた。ただ本人は、活動拠点が海
外であるので、表だってテレビにはでない。知っているひといるだろうが、そこまでメジ
ャーなひとではなかった。
「そのひと、俺の十歳年上みたい」
「うそ!」

「見えないよね、不思議なひとだ」
 坂下はCDのジャケットにのる女性を指さした。「SARA」とかかれた女性は、黒髪が美
しく、意志の強そうな女性だった。自信にあふれ、きれいなひとだ。
 坂下はCDを元の場所に戻し、買い物に行くと言うので、志織は一緒について行くことに
した。
「坂下さんに会えるとは思いませんでした」
「マンションから近いし、休日はこの商店街にくることが多いんだ」
「休日は家族連れも多いですよね」
「そうだね、楽しそうだ。あまり子どものころは、親と出かけることもなかったから、不
思議な光景ではあるけれど」
「そうなのですか?」
「まあね、両親は忙しくてあまり家にいなかったから」
 志織はもっと話しを聞きたいと思ったが、それ以上深く聞ける雰囲気ではなかった。今
日の坂下は、いつもよりも悲しい色を感じる。もともと表情を多くださない穏やかなひと
だが、彼の瞳は静かすぎるのだ。何かを諦めているような、耐えているような。
 志織は一緒の時間を過ごすことが多くなると、彼の抱えている孤独を感じることが多く
なった。

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