「大塩平八郎」のネタバレ&あらすじと結末を徹底解説|森鴎外

「大塩平八郎」

【ネタバレ有り】大塩平八郎 のあらすじを起承転結でネタバレ解説!

著者:森鴎外 1971年6月に筑摩書房から出版

大塩平八郎の主要登場人物

大塩平八郎(おおしお へいはちろう)
反乱の首謀者。元大坂東町奉行所与力で賄賂、不正を許さない気質の持ち主。与力を辞職し自宅に塾を構える。天保の飢饉が発生すると民衆が飢饉に苦しむ中、財を貯め込む豪商や民衆に厳しい対応をする幕府・奉行所に対し、門下生や支援者と共に決起する。

大塩格之助(おおしお かくのすけ)
平八郎の養子で大坂東町奉行所与力。決起では最後まで平八郎と行動を共にする。砲術家。

宇津木矩之允(うつぎ のりのすけ)
平八郎門下の塾生。優秀な弟子であったが平八郎の考えに賛同できず塾内で孤立。

瀬田済之助(せた せいのすけ)
東町奉行所与力で平八郎門下の塾生。奉行所で捕縛されそうになるが脱出。平八郎の決起に参加。

跡部良弼(あとべ よしすけ)
大坂東町奉行。大坂西町奉行堀 利賢(ほり としかた)と連携し、乱の鎮圧に奔走。

大塩平八郎 の簡単なあらすじ

 江戸末期の頃、大坂東町奉行所の元与力大塩平八郎は自宅で陽明学を門下生に教えていました。ところが1833年に天保の飢饉が発生します。大坂に軒を並べている豪商は苦しむ民衆を顧みず蓄財に勤しみ、幕府の出先機関である奉行所は疲弊して苦しむ民衆に容赦のない弾圧を加えます。与力の頃、清廉潔白に勤め上げていた平八郎にとって豪商や奉行所をどうしても許することができません。そこで門下生や賛同者の協力で半年ほどかけて自宅に武器弾薬を調達し天保8年(1837年)2月19日早朝、豪商や奉行所に天誅を加えるために大坂の町で決起、後世「大塩平八郎の乱」と呼ばれる反乱の狼煙を上げました。

大塩平八郎 の起承転結

【起】大塩平八郎 のあらすじ①

決起前夜

 大坂の東町奉行跡部良弼と西町奉行堀 利賢は元東町奉行所与力で辞職後自宅で私塾を開いている陽明学者、大塩平八郎と塾生が船場(せんば)の豪商や奉行所に対する襲撃を準備していることを塾生の密告によって知ることになります。

両奉行は一時途方に暮れますが、互いに連絡を取り合い、配下の与力らに指図、さらに大坂城代の協力も得て平八郎らの反乱鎮圧に乗り出します。

 密告の際、東町奉行所の与力瀬田済之助と小泉淵次郎(えんじろう)が平八郎の企てに荷担していることが露見します。

そこで東町奉行跡部良弼は一計を案じ、瀬田と小泉を捕らえようとしますが混乱の中で小泉は殺されてしまいます。

しかし瀬田は辛くも東町奉行所から脱出に成功します。

 一方、平八郎の屋敷では武士だけでなく、平八郎の志に感銘を受けた近隣の農民や商人、医師らが決起の準備に追われ、また口実を設けて連れてこられた大工といった職人たちが半ば軟禁、働かされていました。

屋敷は半年の間に武器製造工場と化していたのです。

決起に備え、喧噪の只中にありました。

槍や鉄砲だけでなく大砲まで準備していました。

こういった中、命からがら東町奉行所から逃げてきた瀬田は平八郎らに決起の企てが奉行所に漏れたことを知らせます。

【承】大塩平八郎 のあらすじ②

粛清

 宇津木矩之允は平八郎の優秀な弟子で、九州へ2年ほど遊学。

平八郎が決起する前年の冬に塾へ戻ってきていました。

九州遊学の際、自分の弟子にした医師岡田道玄の子、良之進(りゅうのしん)16歳も連れていました。

宇都木は九州遊学中に塾の空気が一変していることを知りました。

平八郎が説く、天保の飢饉などの影響によって疲弊している民衆を救済するためには、もはや豪商や奉行所といった「義」を失った賊に天誅を加える以外にないのだという決起の理由に宇都木はどうしても納得できません。

 決起前夜、宇都木は自分の墓碑銘に刻むことばを紙に記し、良之進にその紙を持って京都の東本願寺に立ち寄った後、彦根の兄の処へ行くように促します。

 一方、平八郎は決起の当日、曖昧な態度を取り続ける宇都木の粛清を決意。

平八郎の意を受け、宇都木の部屋へ侵入してきた玉造(たまつくり)組与力の息子、大井正一郎に宇都木は一切抵抗もせずに斬り殺されてしまいます。

一部始終を庭の塀際から見ていた良之進は屋敷からの脱出に成功し、京都方面へ向かいました。

【転】大塩平八郎 のあらすじ③

平八郎の選択

 平八郎は自分が決起を決意するまでに至った心境を回想していました。

現役の与力の頃は犯罪の摘発に成果を上げ、また奉行所を辞し、学者になってからも功成り名を遂げることができました。

しかし天保3年(1831年)に入り天変地異による自然災害が続き、それによって引き起こされた飢饉などで民衆が困窮に陥りました。

しかし飢饉の最中にもかかわず豪商などは財を貯め込み、奉行所を出先とする幕府は豪商と癒着して民衆を弾圧するばかりです。

とりわけ、かつて自分が勤めていた東町奉行所の奉行跡部良弼は僅かの銭を持って大坂へ米を買いに来た民衆を牢に入れるなど、窮民に対する無慈悲な仕打ちに憤懣やるせない思いが募りました。

 平八郎はこの状況に対して3つの選択肢が浮かびます。

第一は傍観、民衆の疲弊や幕府の横暴を見てみないふりをすることですが、平八郎が門下生に説いてきた教えと矛盾が生じます。

第二は奉行所や豪商に嘆願することです。

しかし相手は権力者であり、大商人です。

平八郎の訴えに耳を傾けてくれるとはとても思えません。

第三の道は決起して奉行所の役人たちを罰し、豪商の金倉や米倉を開けさせて貯め込んだ蓄財を民衆に分け与えることでした。

平八郎は思案の末、決起の道を選びました。

【結】大塩平八郎 のあらすじ④

大塩平八郎の乱勃発と結末

 天保8年(1837年)2月19日早朝、自宅に火を放つと、平八郎とその一党100人あまりは「救民」と描いた旗を先頭に大坂の町へ繰り出しました。

刀や槍、鉄砲で武装した決起軍は車に積んだ大砲を引いて整然と行進し、近くの川崎東照宮に集合しました。

そして神社に隣接する東町奉行所与力浅岡の自宅へ大砲を向け、最初の一発を発射しました。

 次に、かねてからの計画通りに豪商が軒を連ねている船場へと向かいます。

ところが渡る予定にしていた天神橋はすでに奉行所によって壊されていました。

そこで急遽、隣の難波橋へ移動します。

奉行所の命令で難波橋を壊し始めていた木樵らがいましたが、決起軍は彼らを蹴散らして橋を渡って船場へと侵入することに成功します。

その間に近隣から人々が決起軍へ駆けつけたため300人ほどに膨れあがっていました。

 船場にあった鴻池、天王寺、三井といった豪商の金蔵が次々と破壊され金銭が強奪されていきました。

しかし後から集まった群衆のなかには個人的な略奪が目的の者も大勢混じっていました。

次第に「義」とはほど遠い光景を呈してきました。

平八郎は撤退を命じますが「烏合の衆」と化してしまった集団は整然とは動けません。

火事も町全体に広がっていきました。

とうとう平野町付近で反撃してきた奉行所側の戦闘部隊と遭遇し戦闘になりますが、すぐに敗走します。

300人までいた人数も次々と離散し、屋形船に乗って大坂の町を脱出する午後4時頃には平八郎親子を含めて僅か14人にまで激減していました。

 船を下り陸路逃亡を続けますが平八郎親子に最後まで従った瀬田も病に冒され、竹林で最期を遂げます。

平八郎親子は大坂に引き返し大塩家と昵懇にしていた手拭いの生地仕入れ業を営む美吉屋(みよしや)に匿われていましたが、とうとう幕府方に居所を突き止められ囲まれます。

覚悟を決めた平八郎は格之助を殺し,部屋に火を放ち自決して果てます。

大塩平八郎 を読んだ読書感想

 歴史上の人物や事件を扱うテレビのドキュメンタリードラマを見ているような印象を受けました。

とくに描かれている登場人物が決起側、鎮圧側を含めて「天保」という時代的制約の中で精一杯自分の信念、職責に忠実に生きようとする姿には感銘しました。

大塩平八郎についても清廉潔白な人物としてだけでなく自分に従わない弟子を容赦なく排除するなど冷酷非情な側面も描いています。

また幕府側でも大塩の乱を目前にして大坂城代と奉行所との間に存在する縄張り意識による対立なども描かれています。

鴎外が官僚であったことも影響しているのかも知れません。

 平八郎は豪商の金倉を破壊、貯め込んでいる蓄財を奪取するところまでは成功しました。

しかし集まってきた群衆は自分勝手に略奪するばかりで、豪商の蓄財を民衆に分け与えるという平八郎の目的は達成できませんでした。

やがて体勢を立て直した幕府側と衝突しますが忽ち多くの群衆は離散し、乱は呆気ない敗北に終わります。

やがて大坂の町に広がった火事で略奪に参加していた群衆、傍観していた民衆も含めて甚大な被害を受けてしまいました。

 大塩平八郎が単なるテロリストの頭目だったとか、時代の先駆者だとか現在でも賛否両論がありますが、歴史的な教訓としてこの事件に学ぶべきものは多いのではないでしょうか。

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