「一夢庵風流記」のネタバレ&あらすじと結末を徹底解説|隆慶一郎

一夢庵風流記

【ネタバレ有り】一夢庵風流記 のあらすじを起承転結でネタバレ解説!

著者:隆慶一郎 1992年12月に集英社から出版

一夢庵風流記の主要登場人物

前田慶次郎(まえだけいじろう)
本作の主人公。義父・前田利久の死をきっかけに国を捨て、傾奇者として生きる事を選ぶ。

前田利家(まえだとしいえ)
慶次郎の叔父。兄・利久と慶次郎を追放した過去を持つ。小心者だが豊臣家とっては重要な存在。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)
天下人。傾奇者として名を上げた慶次郎に関心を持ち、対面を望む。

直江兼続(なおえかねつぐ)
上杉家家老。後に慶次郎の生涯の友となる人物。

奥村助右衛門(おくむらすけえもん)
加賀藩士。慶次郎の数少ない理解者。

一夢庵風流記 の簡単なあらすじ

時は戦国時代末期。かの豊臣秀吉の天下を手にした時節。北の加賀国にて一人の男がある決断をした。「こんな時代だからこそ、自由に生きたい」と。動乱の時代の中、激しくも涼やかに生きた”天下の傾奇者”前田慶次郎の生涯を描く。

一夢庵風流記 の起承転結

【起】一夢庵風流記 のあらすじ①

出奔の日

永禄3年(1560年)前田慶次郎(利益)は尾張荒子城主・前田利久の養子として育てられました。

病弱で実子の居ない利久は慶次郎を我が子の様に愛し、やがては荒子城主の座を譲るつもりだったのですが…。

永禄12年(1569年)主君である織田信長の名により、荒子城主の座は利久の弟、利家に譲られる事になってしまいます。

利久と慶次郎は城を追われる事となり、以後十四年間史料から姿を消す事となりました。

天正15年(1587)義父・利久の逝去。

これにより慶次郎と前田家の繋がりも無くなりました。

慶次郎は荒子城を追われて以来、不仲が続いていた利家を屋敷へ招待します。

季節は厳寒の冬。

障子が取り払われた部屋に案内され、寒さに身悶える利家。

「叔父上殿、茶の湯の前に風呂は如何でしょうか。」

なるほどこの寒さは風呂を引き立てる為の工夫か、と利家は膝を打ち、意気揚々と風呂に飛び込んだのですが…、なんとこの風呂、実は水風呂だったのです。

この日の招待は意趣返しの為の物でした。

利家の声にならない悲鳴を聞きながら、慶次郎は愛馬に跨がり駆け出していきます。

そしてそのまま、慶次郎が加賀には帰る事はありませんでした。

こうして慶次郎は天涯孤独の身となり、我が身を乱世に投じていったのです。

【承】一夢庵風流記 のあらすじ②

天下御免

天正16年(1588)関白の宣下を受け、豊臣の性を拝した秀吉は、その地位を示す為に”聚楽第”と呼ばれる城郭を建造しました。

この年の京都ではその行楽が行われており、多くの人や物が集まり大きな賑わっていました。

そしてあの前田慶次郎も。

相変わらず奇抜な格好をして、親友・奥村助右衛門から贈与された金子で遊び暮らしていました。

しかし、この頃の慶次郎は一般的に言う「飲む・打つ・買う」ばかりの道楽者ではなく、京の公卿達と古書の解釈を進めたり、和歌や連歌、笛や太鼓に乱舞や茶道まで心得る”雅の人”でした。

明るく人懐っこい慶次郎の人柄もあり、前田慶次郎の名は次第に公卿屋敷にて名を上げていき…やがて天下人の秀吉の耳に届く事になったのです。

秀吉は一目会いたいと、前田家を通して慶次郎を呼びつけました。

しかも普段通りの傾奇者として訪れよとの命。

慶次郎は悩みます。

傾奇者とは己の気ままに振る舞う者。

しかし問題を起こせば前田家や家中の者が迷惑を被る。

悩み抜いた挙げく慶次郎が決断した事は…秀吉を殺す事でした。

聚楽第。

謁見の間を進む慶次郎。

しかし、秀吉に殺気を感じ取られ露呈してしまうのでした。

何故こんな事を、という秀吉の尋問に対し、「通せるかわからないが、人としての意地を通したかった」そう言いながら照れくさそうに笑う慶次郎を見て、秀吉は破顔し、納得したのでした。

かくして、秀吉から慶次郎に対し、”傾き御免状”という物が与えられる事になりました。

これはこの国で好き勝手に振る舞っても良い、という天下人・秀吉からのお墨付きでした。

こうして前田慶次郎は”天下の傾奇者”と呼ばれる事となったのです。

【転】一夢庵風流記 のあらすじ③

動乱の中

慶長四年(1599年)前田利家死去。

慶次郎にとっては憎むべき相手。

しかし歴史上の視点でいえば、利家は秀吉亡き豊臣家の支柱的存在でした。

その利家が死んだ…この機に乗ぜよと動き出すのが、時代の最終的勝者である徳川家康でした。

報を耳にした慶次郎は、上杉家家老・直江兼続の事を案じていました。

兼続とは以前、上杉家家臣の間での諍いに巻き込まれた時に出会い、それ以来ずっと親交と深めてきた仲。

戦にならなければ良いが…という悪い予感は的中し、上杉と徳川の戦が始まります。

国力の差は歴然。

誰が見ても上杉家の命運は風前の灯に見えましたが、「莫逆の友の為、死んでやろうかね」慶次郎はそう嘯くと、京の街を後にして合津に向かうのでした。

そして上杉家はその後、徳川の軍勢や伊達の軍勢と激しい戦いを繰り広げ、遂に守り通します。

だが、歴史的な観点で言えば、勝利とは言い難い結果でした。

挙兵した家康に対して、西の京にて石田三成が挙兵し、それに対応する形で日本が東西に別れ、その歴史的決戦に於いて、東の徳川が勝利したのです。

俗に言う「関ヶ原の戦い」です。

こうして上杉家は敗軍となり、慶次郎はまたしても歴史の波に飲まれていきました。

【結】一夢庵風流記 のあらすじ④

風流の人

慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いの後、慶次郎の屋敷には頻繁に来訪者が訪れていました。

上杉陣での戦ぶりが評価され、是非あの慶次郎を高禄で召し抱えたいという声が上がった為です。

しかし慶次郎は、これまた不機嫌そうな顔で誘いを断り、ただ縁側から外を眺めているのでした。

ある雨の日。

全く突然に、直江兼続が屋敷に現れました。

敗軍となった上杉家は会津120万石から米沢30万石へと、知行を大きく減らされた後でした。

たった2000石しか出せない。

兼続のその言葉を聞いた慶次郎は、これまた上機嫌な顔で頷きます。

慶次郎が待っていたのは、名誉でもなく、知行でもなく、友の声でした。

そしてそれは、傾奇者としての自分との決別をも意味していたのです。

ある日、慶次郎は京の四条河原に立っていました。

銭まくど 銭まくど妙な節を付けて喚きながら、ぱっと空に金を巻きました。

付近いた人々は歓声を上げながら飛び付き、やがて大騒ぎとなりました。

それに乗じた傀儡師が笛を吹き、やがて歌が始まり、踊りが乗せられ、賑やかに行進し、金が尽きても、皆が時を忘れ、我を忘れ、一体となって陶酔していきます。

それが天下の傾奇者・前田慶次郎の、傾き納めでした。

この後の晩年の慶次郎に関する史料は殆ど残っていません。

恐らく直江兼続のいる米沢にて没したのだろう、著者はそう最後に結んでいます。

一夢庵風流記 を読んだ読書感想

この物語を一言で評するなら「風流」であると思います。

荒子城を追われ、”無念の人”となった慶次郎は、その中から栄枯盛衰を見い出し、いつ訪れるとも知れない”死”を悔いなく迎えるために、常に美しく生き抜こうとしているのだと感じました。

だからこそ、傍若無人で破天荒な振る舞いの中に、悲しさや侘しさが滲んで見えるのではないでしょうか。

自由であろうとする事、見方を変えれば、これほど不自由な事はありません。

しかしそれでも己を律し、命を懸け、潔癖と思える程に己が生き方を貫いた前田慶次郎”人生”こそが、最も自分を艶やかに飾る物であり、その生き様こそが、最高の「風流」なのではないかと考えさせられました。

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