「井口さん、ごめん!」
「遅いよ!でも、カフェラテおごってくれたら許そうかな?」
「わかった、何でもおごらせて」
坂下と別れを選んでから、志織はまた山本と連絡をとった。
志織が元気のなさそうにしていても、山本は何も聞かなかった。
そして、明るく接してくれた。
志織は自分のこころが軽くなるのを感じた。
時間はかかっても、彼と一緒なら忘れられる。
山本には悪い気もしたが、甘えてしまおうと思った。
山本とは定期的にデートをすることになった。
映画にいって、また山本は寝てしまったのもいい思い出だ。
彼も最近仕事が忙しくなってきて、週末も仕事の関係で遅れることがある。
志織はそんな彼の仕事を理解はしているが、我慢はしない。
怒った姿を見せることができた。
それは今まで自分を抑えてしまいがちな、志織の性格からして珍しいことだった。
「俺たち、付き合っているのかな」
「山本くんとわたし?」
ショッピングをして楽しんだあとは、夕食を一緒に食べた。
彼が志織に尋ねてきた。
たしかにここのところ、週末はずっとデートを繰り返している。
山本が自分のことを好きなのはわかっていた。
「山本くんはどう思っている?」
「え……付き合っていたら、いいなと思うけど」
「いいと思うけれど?」
「俺だけの勘違いだったら恥ずかしいと思って」
そんな弱気な発言に、志織は笑ってしまった。
やはり山本はかわいいところがある。
志織は少し意地悪をしたくなった。
「うーん、どうでしょう?」
「まさか、勘違いだった?」
「時間切れ、答えはまた今度に」
「なんだよ~」
お互いたわむれるとうに言葉をかける。
そんな時間が楽しかった。
そうして、時間は過ぎていく。
*****
山本と過ごす時間は、志織の心を癒やしてくれた。
素直で明るく、そして志織を一心に思ってくれる。
その安心感が彼にもっと自分の正直な感情を出してもいいと思わせてくれる。
あんなに我慢して、尽くして、だめだった恋。
我慢しなくて、尽くさなくても、うまくいく恋。
どっちがいいことなのか、それは答えがでなかった。
ただ、志織の心は安定していた。
あんなに冷えていた心が、溶けていくようだ――――
山本の人なつっこい笑顔が、凍えてマヒした心に温かさをくれた。
それだけでも、彼と一緒にいる意味を感じるようになってきた。
「あらためて、付き合ってほしいな」
「どうしたの?」
「真剣なんだ。付き合ってほしい、結婚前提に」
志織はその言葉に時間が止まった気がした。
あれだけ結婚をしてほしいと願った時間があった。
それなのに山本は、こんなにあっさりとほしい言葉をくれる。
「本当に?」
「うん、井口さんがつらそうな顔をみて。俺が君を守りたいって思えるようになった。いつか話してくれると思っているけれど、もしかして井口さんの暗い表情に坂下さんは関係あるの?」
山本はずっと何も聞かないでいてくれた。
だが、志織の行動を見ていれば気がついたところもあったのだろう。
「井口さんがつらそうな顔をするのは、坂下さんを見ているときだったから。自動販売機で、仲がよさそうにしていたのを見て。もしかして関係があるのかなとは思っていた」
「…………」
志織は何も言えなかった。肯定も否定もできない。
彼に坂下との関係を告げるべきなのだろうか。
もし事情を言っても、彼は受け入れてくれるのだろうか。
不意に、志織は山本を失いたくないと思った。
何気なくだが山本といた時間は、かけがえのないものになっていたのだ。
「井口さんが、坂下さんとどういう関係でもいい。でも、俺の気持ちは変わらないよ。付き合ってほしいという気持ちも変わらない。だから、君が振り向いてくれるまで、待つよ」
「山本くん、ありがとう……」
山本の優しさに救われる。
今は事情を言うような心境ではなかった。
自分は汚い。
あんなに坂下を恋い焦がれ、失った恋をうめるように山本にすがっている。
そんな山本の恋に、答えることができない自分。
そうだ、まるで坂下のようだ。
彼もサラを愛していて、恋い焦がれていた。
だが弱さから、好きと言ってくれる志織の手をとった。
そして志織の手を払うこともできずにいた。
彼の気持ちが今なら少しわかる気がする。
人間は本当に弱くて汚い部分もあるのだ。
恋とは激しく刺激のあるものだが、さみしさから人を利用してまた恋をする。
報われない恋は、連鎖するのかもしれない。
サラに恋した坂下。
坂下に恋した志織。
志織に恋した山本。
誰かが誰かに恋をしている。
「井口さん、せっかくだから散歩しませんか?」
「うん」
山本に連れられ、いつも通っているカフェの庭を歩くことにした。
すると店員が、花壇の手入れをしていた。
「何か植えているんだ、何の花だろう」
山本が店員に話しかけている。
「アネモネの花を植えているんだって」
アネモネの花は春先に咲くようだ。
風に由来した名前が多い花。
「アネモネの花言葉を教えてもらったよ」
「え、何?」
「『はかない恋』なんだって」
志織はその言葉に、心から消えていく恋を思った。
確かにもう消えていく恋。
「でも、ほかにも意味があって『恋の苦しみ』」
そうだ、恋は苦しい。彼に恋して苦しかった。
「ただ、いい意味もあるみたい」
山本がアネモネの花言葉をそっと耳打ちした。
志織は思わず視界がにじんだ。
彼を愛していた――――
それは偽りのない気持ち。
「きれいな花が咲くといいね」
「そうだね」
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