【オフィスのアネモネ】第10話「忘れられない」

オフィスのアネモネ10話

「坂下さんは……このままでいいのですか?」

 

「このままって?」

 

「サラさんのことです。離れて暮らしていて、ひとりで……」

 

「さびしいね、だから君に寄りかかりたくなるのかもしれない。ずるいってわかっているけれど、俺のわがままだから」

 

 坂下は優しい。志織が思いを口にしなければ、あのまま上司と部下のまま時間が過ぎていったのだろうか。志織が坂下を好きにならなければ、こんな思いをしなくてすんだのだろうか。答えはでることはなかった。

 

「井口さんの思いを答えたとしても、離婚はすることはできない」

 

 はっきりと言われてしまった。確かに坂下の気持ちも理解できる。坂下にとっては、サラさんは妻というより家族なのだろう。

 

血のつながりがないからこそ、結婚という形でつながった絆。坂下の意地にも感じる。サラさんをなくすということは、家族もなくすということなのだろう。

 

「少し考えさせてください……」

 

 志織は頭をさげて、その場をあとにした。結局料理もほとんど食べることができなかった。坂下の事情を聞けば、何か事態がかわると思ったのは大きな間違いだった。彼の抱えるさびしさを分かち合うことなどできなかったのだ。

 

 彼を理解したいなんて、おこがましいことだったのかもしれない。だが、志織は考えこんでしまう。そう感情はシンプルなのだ。離婚はしないと言われても、彼を思う気持ちは変わらなかった。不毛な関係、未来なんてないだろう。

 

「苦しいよ……」

 

 志織は帰り道、ひとりでそっと涙を流した。

 

****

 

「井口さん、日曜日は暇かな?」

 

「え……?」

 

 あの夜から坂下とは距離を置くようにした。メールも食事もしない。距離をとれば、好きな気持ちもやわらぐと思った。しかしそんなことはなかった。仕事中もぼんやりとしてしまうことがある。

 

 そんなときに声をかけてくれたのは山本だった。山本は知り合いから映画のチケットをもらったから、一緒にいかないかと誘ってくれた。今までデートを誘うと口では言っても、実際誘ってくることはなかった。だから少し驚いた。

 

「最近、元気ないから。心配になって。デートって思ってくれてもいいけど、気晴らしにどうかなって。俺、実は甘い物が好きで。入りにくい店があったから付き合ってくれるといいなって思って」

 

「甘い物?わかりました、付き合いますよ」

 

 いつもは誰にだって明るく接する山本が、少し悪そうにお願いしてきたので、思わずデートのお誘いを受けてしまった。坂下とは違う人と過ごす時間もいいのかもしれない。志織は週末のデートの約束をするために、メールアドレスを交換した。

 

****

 

「山本くん、途中で寝ていた?」

 

「いや、寝てないよ……たぶん」

 

 山本が誘ってくれた映画は、恋愛映画だった。会社の上司と不倫をしてしまう女性が主人公で、結果的に不倫は報われることがなかった。しかし女性には、好きになってくれる同僚がいて、最後はその人とうまくいきそうな展開だった。

 

「なんで不倫なんかするのかな」

 

「あ、映画のこと?」

 

「そう、山本くん……誘ってくれたのに、内容は見てなかったの?」

 

 山本がなぜこの映画を誘ってくれたのかわからない。ただ、山本の性格から察するに、もらったチケットというのは本当だろう。山本だったらアクション映画などの爽快な作品を好むような気がした。女性好みだろうこの恋愛映画は、志織の好みだろうと思ってくれたのかもしれない。

 

「不倫か……あまり考えたことなかった。わからないけれど、すごく魅力的な人だったら、不倫したくなるのかな。俺はせっかく付き合うなら、みんなに隠す関係は嫌かな。長く続かないとは思うよ」

 

「隠す関係、か……」

 

 一般的な意見は山本のいう通りだろう。不倫なんて堂々と付き合えるわけでもない。坂下は確かに魅力的な人だ。知れば知るほど、気になってしまう。もっと知りたいと思う気持ちが止められない。でも、それは手に入れられないから?という疑問もあるのだ。

 

「でも、好きな気持ちってそんなに割り切れるのかな?映画のことだけど、主人公も悩んでいたから」

 

「恋愛感情そのものにはいいも悪いもないのかなとは思うけど。結果的に成長できたなら主人公はよかったのかもしれない。ただ傷つく恋愛は、おすすめしたくないかなって」

 

 山本の優しさを感じる。映画の主人公のことを言っているとは思ったが、まるで志織のことを言っているような気がした。このまま坂下と関係が進んでも、傷つくのはきっと自分だ。結果はたぶん想像できている。止めるなら、今なのかもしれない。

 

 しばらく歩くと甘味の店が見えてきた。山本が店を指さした。

 

「あ、あの店だよ。一回彼女と来てみたかったから」

 

「え、わたしでいいの?」

 

「何度も言っているけど、井口さんのことそういう意味で思っているから。冗談じゃないよ」

 

 笑顔で言われてしまった。好意を向けられるのは嫌ではない。自分がいくら思っても、かなわない恋心を優しく包んでくれるようだ。坂下も志織の気持ちをなぜ拒否しないのか、少しだけ理解ができた。

 

「ありがとう」

 

 それ以上、答えは返すことはできなかった。志織は結果的に坂下のことを考えてしまう。山本といるときも、忘れることはできなかった。

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