【オフィスのアネモネ】第26話「ルージュと電話」

オフィスのアネモネ

週末がくる。
志織は、赤いルージュをひく。

一時期は、山本と食事へ行った。
だが、仕事が落ち着いたらしい坂下から、メッセージが届くようになった。
サラも海外へ戻ったのだろう。

坂下の部屋に訪れるときは、かわいらしピンクのルージュだった。
しかし志織は印象を変えたかった。
サラを思うとセクシーな自分を演出したかった。

いつもなら使わない、真っ赤な色。
夜に訪れるワンピースも、スリットが入って足のラインがあらわになったものを選んだ。

坂下にみてもらいたい。若いだけが自分の武器だ。
志織は貞淑なイメージの自分から離れて、派手なかっこうとした。
サラにはおよばないが、大人っぽくなれるだろうか。

 

「井口さん、あれ……いつもと違う?」

「ちょっと、イメージかえてみたくて。似合いませんか?」

 

部屋につくと、坂下は志織の姿に驚いたように声をあげる。
志織だって、こんなに大胆な行動したことはない。
坂下にそっと抱きつく。
久々に彼の体温を感じて、そっと口づけを求める。

坂下から与えられる熱は、じりじりと志織を焼き尽くす。
彼と過ごすたびに、自分が変わっていくことに気がつかされる。

こんなに愛してくれるのは、彼だけなのだと思わされるのだ。

抱き合ってない時間は、お互い言葉は少なくなった。

会うと熱烈に求め合う。

だから、離れたら熱が冷めたように悲しくなる。

 

「井口さん、もう寝たほうがいいよ」

「坂下さん……このままがいいです」

 

彼の腕に抱かれ、眠る時間も惜しい。

このときだけは、全部を忘れられる。
今のつらい現実からも逃げられる。
マヒしたこころも、冷たくなった感情も熱を帯びる。

 

「また週末に会いたいです」

「うん、わかった」

 

坂下は優しい。

志織がお願いすれば、突き放さない。
志織は、また真っ赤なルージュをひいて彼に会いに行くのだ。

 

*****

 

「井口さん、最近つきあいが悪いよ」

「そんなことないよ」

 

一緒にランチをしている林美佳から、恨めしそうに言われてしまった。
志織は笑って首をふる。

 

「また倒れないか心配……ご飯は食べている?」

「うん」

 

一緒にランチをしているが、食べているのはサラダだけだった。
それも全部は食べられない。
食事をしても、のどに引っかかる感じがする。

心配してくれる美佳には悪いことをしている気がする。
でも、自分の気持ちは人には言えない。

志織は終わりがくる瞬間をなんとなく感じている。

例えば、真夏の太陽がじりじりと身を焦がすような熱さだったら。
今は夏が終わり、風向きが変わって穏やかになってきている。
しかし夕方になると、蝉しぐれが鳴き、夏の余韻を残しながらも、消えていく夏の気配。

彼と抱き合うのも、そう長くないとふと思った。

これは執着なのだろう。

でも、自分のこころが折れるのが先なのか……周囲から勘づかれるのが先なのか。

 

「もう、山本くんとも連絡とっているの?」

「うん、最近ちょっと忙しくて……」

「連絡してあげなよ、寂しそうだよ」

 

山本はいつでも連絡してきていいと言ってくれている。
志織が連絡しなければ、しつこく連絡をすることもない。

志織の歩調を尊重し、待っていてくれている。
そんな優しさがうれしい。

志織は坂下からのメッセージが入ったのを確認して、ランチの席から立った。

 

*****

 

「井口さん、少し眠った方がいい」

「でも……」

「最近、寝不足続きだから。俺もちょっと寝させて」

 

志織は坂下の腕の中にいる。
坂下と連日会っては、こんな会話をやりとりする。

彼に時間を与えたくない。

きっと時間があれば、サラと連絡をしてしまうから。
自分と一緒にいれば、連絡をすることもなくなるのだろうか。
志織にとっては最後の賭のようなものだ。

自分を差し出して、そして尽くして、坂下を奪いたい。

サラから奪いたい――――

 

「わかりました……」

 

もういい加減、山本には返事をしなければと思う。
だが、坂下と離れることができるのだろうか。

抱き合えば抱き合うほど、やはり離れられない気がした。
たとえ、坂下のこころが妻にあろうとも。

志織は眠気が襲ってきて、うとうとと眠ってしまった。

そして次の瞬間、目が覚めたときには坂下はいなかった。

 

 

「ん……、そう……それはよかった」

 

遠くから声が聞こえる。坂下が誰と話しているようだ。

志織はベッドから抜け出し、そっと坂下のいる部屋をのぞいた。
彼は笑顔で電話をしていた。

 

「こっちは元気だよ。え?うん、急には無理だよ。」

 

志織と会話をするときは、どこか距離感がある。
だが坂下とサラが話している姿をみると、とても親しい間柄だった。

気負う姿もなく、上司でもなく、ただの人間として彼が存在する。
何も装ってない坂下。
だったら、志織の好きになった坂下とはなんだったのだろう。

 

「ああ、愛しているよ。一番に……」

 

坂下は甘いセリフをささやく。

恋人とは違う、親愛の印の言葉だと思った。
志織と抱き合っても、決してくれない言葉。
好きだとは言っても、一番だとは言ってくれない。

こんなに身を捧げて、愛して、時間をかけても。
彼はきっと自分のものにはならないのだろうと、ぼんやり思った。

志織はベッドに戻り、着替えをして、部屋を出た

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