【オフィスのアネモネ】第5話「ワインとクチビル」

オフィスのアネモネ5話

「坂下さん、お待たせしました」

「なんだか、慣れてきたね」

坂下と志織は、駅のプラットフォームで待ち合わせして帰ることが増えてきた。

休日に、坂下と一緒の時間を過ごして、プライベートのメールアドレスを交換した。

それからひんぱんに連絡をとりあうことが多くなった。

朝の「おはよう」で目が覚めて、夜の「おやすみ」で眠る。

朝から晩まで、志織は坂下のことを思う日々だ。恋であると自覚はしている。もっと彼を知りたい。もっと近づきたい。

だが、肝心なところで坂下は一歩踏み込ませてはくれないのだ。

「今日の夕飯はどうしますか?」

 一緒に帰ることが多くなり、自然と坂下の行きつけの小料理屋へ行くことになる。

坂下は、何かと話しを聞いてくれ、食事もおごってくれることもあった。

志織はおごってもらうために一緒にいたいわけではなく、いつもお会計は別にというのだが、払わせてもらえないのだ。

「そうだね、イタリアンは食べられる?」

「イタリアンですか?パスタとか?ピザとか?」

「そう、お酒のみながらちょっと食べられる店があって」

坂下の選ぶ店は外れがない。坂下は、マンションから近い店はほぼ行き尽くしているらしい。

少ない趣味のひとつに、食べ歩きというのがあると聞いた。

坂下は物にあまり執着がないみたいだが、食事と睡眠はとても大切にしているようだった。

そのほかは、仕事が趣味のようで、物欲もなければ、人間関係も広いわけではなさそうだった。

「すてき、楽しみです」

坂下は騒がしい店が苦手なようだった。

自分のペースでご飯が食べられ、そして静かな時間をゆっくり過ごす。

彼と一緒にいる時間が増えると、彼の好む空間や、雰囲気がわかるようになってきた。

志織と趣味が似ているところもあり、大人な雰囲気にますます志織は坂下にひかれていく。

「いつもの店から反対側の方向だから少し歩くけれど」

志織と坂下は、いつもは志織のアパートのある方向へ歩いて行く。

だいたいアパートまで彼が送ってくれるのだ。

今回は、繁華街がある方向だ。

志織は仕事についていろいろ質問しながら、今度の休日に坂下からCDを借りる約束をしていた。そして店が見えてきた。

間接照明が淡くともる、うつくしくて小さなお店だった。

「ピザもパスタもおいしいけれど、生ハムとワインもおいしかった」

志織と坂下は、席に通された。

小さな店だが、ひとの目が気にならないようそれぞれ仕切りがあり、個室のようになっていた。

そして坂下のおすすめの料理を何品か頼むと、お酒で乾杯した。

「今日もお疲れさまでした」

「お疲れさま、最近は忙しい?」

「はい、忙しいです。新しい仕事も任されて、でも楽しくなってきました」

 志織は仕事に慣れてきて、今までより早く仕事ができるようになった。そうすれば、あんなにきつい当たりをしていた先輩は何も言わなくなった。

使える人間と判断してくれたようで、褒めてはくれないが、周囲と同じように仕事をまわしてくれるようになった。

それだけで、自分は職場にいていいような気がして、志織は仕事にやりがいを感じ始めていた。

「顔つきが違うよね。やっぱり井口さんは、真面目だし、能力があったんだよ」

「そんなことないです。同期の話を聞くと、まだまだだなって思うことも多くて。でも、この前までは半年先のことを考えるだけでつらかったです」

「そんなことないよ。でも、少しさびしいかな」

「え?」

「いや、頼りにされていた感じがしたからね。まあ、でも明るく笑ってくれてうれしいよ」

「そんなことないです……今でも坂下さんのことすごく尊敬していますし。これからもいっぱい相談にのってほしいなって思っています」

坂下の表情を見ていると、親のような兄のような優しい顔つきだった。確かに一回りほど年齢は違うけれど、子どもを見守るように支えてくれるような安心感があった。

でも志織は、それだけじゃ嫌だと思うようになった。もっと女性として自分をみてほしい。

「坂下さんには、頼りなくて子どもっぽく見えるかもしれないですけど。わたしだって、坂下さんの力になりたいです」

お酒もまわってきた。

グラスのワインを飲み干した。

そんなに飲んでいないのに、顔が熱いような気がする。

「こどもだなんて、思ってないよ。でも、女のひとってどんどん成長するなって思う。ひとに出会うことで、きらきら輝いて。いつの間にか遠いところに行ってしまう気がして」

坂下はぼんやりと遠くを見つめながら、グラスワインをちびりちびりと飲む。

「遠くに?」

「そう、俺のことなんか置いてしまって。飛び出してしまうんだろうね。少しさびしいかな」

ちょっと悲しげに笑う坂下に、志織はなんと言っていいかわからなかった。

きっと坂下にはそんな過去があるのかもしれない。志織の知らない坂下の過去。

でも、わたしだったら違うと思った。
ずっと彼のそばに居る、だからそんな顔しないでと、、、

でも言葉では伝わらない気がした。

気付けば志織は、身を乗り出して、そっと坂下の唇にキスをしていた。

「わたしは、坂下さんのそばにいますよ?」

坂下は驚いたように目を見開いたが、くすっと小さく笑った。

そうして子どもにするように、お返しに志織の額に触れるだけのキスをした。

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