「Kの昇天——或はKの溺死」のネタバレ&あらすじと結末を徹底解説|梶井基次郎

「Kの昇天——或はKの溺死」

著者:梶井基次郎 1926年10月に旺文社から出版

Kの昇天——或はKの溺死の主要登場人物

私(わたし)
この物語の語り手。    療養地のN海岸で、偶然にもK君と出会い、    K君から不思議な話を聞く。

あなた(あなた)
語り手である「私」が、語りかけている相手。    「私」とは面識がないが、K君について知りたいため、    「私」に手紙で連絡をした。

K君(けーくん)
N海岸で療養していたが、海岸で溺死した。    過失だったのか、自殺だったのか定かではない。    「私」とは海岸で出会い、興味深い話を伝えていた。

Kの昇天——或はKの溺死 の簡単なあらすじ

面識のない「あなた」から手紙をもらった「私」が、この物語について語ります。

手紙の主は、K君が溺死した事件について思い悩んでいる様子でした。

なぜなら、K君の死が過失だったのか、自殺だったのか、はっきりしないためでした。

しかし、K君が死ぬ直前に、彼から話を聞いていた私には、思い当たるところがありました。

それは、K君が海岸で影を追いかけていたこと、そしてついには影と入れ替わってしまったのではないかという話です。

私は、これから「あなた」に、その説明をしようと思います。

Kの昇天——或はKの溺死 の起承転結

【起】Kの昇天——或はKの溺死 のあらすじ①

悲報について

(物語は「私」が「あなた」に語り掛ける形式で進みます)お手紙によると、あなたはK君の溺死について、過失だったのか、自殺だったのかと、思い悩んでいるようです。

自殺ならば、それが何に原因しているのでしょうか、もしくは不治の病をはかなんで死んだのではないでようかと。

だからこそ、療養地のN海岸で、偶然にもK君と居合わせただけの、面識もない私にお手紙をくれたのだと思います。

私は、あなたのお手紙で、はじめてK君の溺死を知りました。

私はとても驚きました。

しかし、それと同時に「K君はとうとう月世界へ行った」と思ったのでした。

どうして私がそんな奇異なことを思ったか、それを私は今ここでお話しようと思います。

あるいは、K君の死の謎を解くための、一つの鍵になるかも知れないと思うからです。

いつ頃だったかは忘れましたが、私がN海岸へ行ってから、はじめての満月の晩のことでした。

私は病気のせいで、その頃は、夜になるとどうしても眠れないのでした。

その晩も、とうとう寝床を起きてしまって、旅館を出て、砂浜へ向かいました。

引きあげられた漁船や、地引網を捲まく轆轤などが白い砂に鮮かな影をおとしているほかは、浜には何の人影もありませんでした。

干潮で荒い浪が月光に砕けながらどうどうと打ち寄せていました。

私は煙草をつけながら漁船のともに腰を下して海を眺めていました。

夜はもうかなり更ふけていました。

しばらくして、私が眼を砂浜の方に転たとき、私は砂浜に私以外のもう一人の人を発見しました。

それがK君だったのです。

しかしその時はK君という人を、私はまだ知りませんでした。

その晩、はじめて私達は互いに名乗り合ったのですから。

【承】Kの昇天——或はKの溺死 のあらすじ②

K君との出会い

私は、砂浜に見つけた人影を、時々確認していました。

すると、だんだん不思議に思い始めました。

なぜなら、その人影(K君)は、海を見るというのでもなく、砂浜を前に進んだり、後に退いたり、そうかと思うと立ち留ったり、そんなことを繰り返していたからです。

私は、その人が落し物でも捜しているのだろうと思いました。

なぜなら、首は砂の上を見ているらしく、前に傾いていたからです。

しかし、それにしてはかがみもせず、足で砂をかき分けることもしませんでした。

私はまた、あの人は煙草を吸わないからマッチがなく、それで足元を照らすこともできないのだ、とも思いました。

とにかく、あの人影が、なにか非常に大切なものを落としたのであろうと考えたのです。

私は、海の方に向き直って口笛を吹きはじめました。

最初は無意識にだったのですが、もしかすると人影に効果を与えるかもと思い、途中から意識的になりました。

はじめはシューベルトの「海辺にて」を吹きました。

それからの「ドッペルゲンゲル」を吹きました。

そしてその人影の方へ歩きはじめました。

その人影に私の口笛は何の効果もなかったのです。

近寄ってゆく私の足音にも気がつかないようでした。

そして少し手前で、思い切って、「何か落し物をなさったのですか」と、大きい声で呼びかけてみました。

するとその人は、私の方を振り向き、きまり悪そうな顔で「なんでもないんです」と答えました。

私とK君とが口を利いたのは、こんなふうな奇異な事件がそのはじまりでした。

そして私達は、その夜から親しい間柄になったのでした。

【転】Kの昇天——或はKの溺死 のあらすじ③

影について

しばらくしてから、私は「さっきはいったい何をしていたんです」かと、K君に尋ねました。

すると、最初は躊躇していたK君でしたが、「自分の影を見ていた」と答えました。

そしてそれは、阿片のようなものだと言ったのでした。

あなたにも、それが突飛であるように、それは私にも実に突飛な表現でした。

K君はその不思議なことを、ぼちぼち話してくれました。

影ほど不思議なものはないとK君は言いました。

影をじーっと見つめていると、そのなかにだんだん生物の相があらわれて来るというのです。

それは電燈や光線でできる影では駄目で、月の光が一番良いのだそうです。

そしてそれをじーっと視凝みつめていると、そのうちに自分の姿がだんだん見えて来るということでした。

それは「気配」の域を越えて「見えるもの」の領分へ入って来るのだそうです。

自分の姿が見えて来るのですが、不思議なのはそればかりではないそうです。

だんだん姿があらわれて来るに従って、影の自分は彼自身の人格を持ちはじめるだそうです。

それにつれて、今度はこちらの自分が、だんだん気持が遠くなっていき、ある瞬間から月へ向かって昇って行く感じがするとのことでした。

K君はここを話すとき、その瞳はじっと私の瞳に見入り、非常に緊張した様子でした。

そして、そこで何かを思いついたように、微笑でもってその緊張を緩めました。

「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。

これはその今一つの方法ですよ。

でも、ジュール・ラフォルグの詩にあるように哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。

私も何遍やってもおっこちるんですよ」そう言ってK君は笑いました。

【結】Kの昇天——或はKの溺死 のあらすじ④

K君の死因

私があなたのお手紙で、K君の溺死を読んだとき、最も先に私の心象に浮かんだのは、あの最初の夜の、奇異なK君の後姿でした。

そして私はすぐ、「K君は月へ登ってしまったのだ」と感じました。

もし私の直感の通りなのだとしたら、影がK君を奪ったのです。

しかし私はその直感を固執するのでありません。

私自身にとってもその直感は参考にしか過ぎないのです。

ほんとうの死因、それは私にとっても五里霧中であります。

しかし私はその直感を土台にして、その不幸な満月の夜のことを仮に組み立ててみようと思います。

その夜の月齢は十五・二で、月の出が六時三十分でした。

十一時四十七分が月の南中する時刻と本暦には記載されています。

私はK君が海へ歩み入ったのはこの時刻の前後ではないかと思うのです。

もしそうとすればK君のいわゆる一尺ないし二尺の影は北側といってもやや東に偏した方向に落ちるわけで、K君はその影を追いながら海岸線を斜めに海へ歩み入ったことになります。

K君は病と共に精神が鋭く尖とがり、その夜は影がほんとうに「見えるもの」になったのだと思われます。

K君の身体はだんだん意識の支配を失い、無意識な歩みは一歩一歩海へ近づいて行くのです。

影の方の彼はついに一箇の人格を持ち、K君の魂はなお高く昇天してゆきます。

そしてその形骸は影の彼に導かれつつ、機械人形のように海へ歩み入ったのではないでしょうか。

干潮は十一時五十六分と記載されています。

その時刻の激浪に形骸の翻弄を委たまま、K君の魂は月へ月へ、飛翔し去ったのだと思うのです。

Kの昇天——或はKの溺死 を読んだ読書感想

梶井基次郎の1926年の作品です。

彼の多くの作品では、死の影が色濃い形で横たわっているかのように感じます。

それは何よりも、彼自身が結核という死の病を持病としていたからに他なりません。

この作品は、ドッペルゲンガーをモチーフとして、K君の不思議な溺死について叙述するものです。

その語り口の中に、死や美というものに対する、ストイックなまでの憧れのようなものを感じ取ることができます。

ストーリーの語り口は一定であるものの、語り手である「私」の説明がクライマックスに向かって高揚していく様が感じられます。

また、月明かりの中で、海岸でウロウロするK君と、それを遠くから眺めながら口笛を吹く私、というように、短いながらも幻想的で美しい情景が、鮮やかなタッチで描写されています。

これは短編小説なのでしょうか、それとも文章めいた詩なのでしょうか。

ストーリーを読む感覚の中に、詩を聴いているような感覚をあわせ持っており、なんとも不思議な魅力に満ちた作品といえます。

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