【ネタバレ有り】堺事件 のあらすじを起承転結でネタバレ解説!
著者:森鴎外 1971年6月に筑摩書房から出版
堺事件の主要登場人物
箕浦元章(みのうら もとあき)
土佐藩 六番歩兵隊隊長。堺の港でフランス軍水兵への銃撃を命じる。
西村氏同(にしむら うじあつ)
土佐藩 八番歩兵隊隊長。六番隊と行動を共にする。
竹内民五郎(たけうち たみごろう)
土佐藩 八番歩兵隊隊員。土佐藩大目付小南の前でフランス軍水兵に対する銃撃の正当性を主張。
小南五郎右衛門(こみなみ ごろうえもん)
土佐藩大目付。堺事件発生直後、土佐藩の代表の一人としてフランスと交渉。処刑の裁定が下った歩兵隊員との直談判に応じる。
レオン・ロッシュ
幕末のフランス公使。堺事件のフランス側責任者。
堺事件 の簡単なあらすじ
1868年(慶応4年)1月 幕府が鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北、幕府の直轄地は幕府に代わって新政府軍が担うことになり、堺は土佐藩が藩士や歩兵隊を派遣します。フランスの艦艇から水兵が無許可で堺の港へ上陸、土佐藩の歩兵隊と武力衝突に至ります。火力に勝る歩兵隊の銃撃で一方的にフランス側に13人の戦死者が出ました。フランス公使は新政府に水兵を射殺した歩兵隊から20人を選出、堺で処刑するように要求します。欧米列強の介入を恐れ、新政府はすぐに要求を受諾。水兵を銃撃した六番隊、八番隊の隊長と組頭4人に残りの16人を加えるため、銃撃した隊員の中からくじ引きによって処刑される隊員を選別しました。
堺事件 の起承転結
【起】堺事件 のあらすじ①
1868年(慶応4年)正月、薩摩藩と長州藩、土佐藩を中核とする新政府軍は徳川幕府軍と鳥羽・伏見で武力衝突しました。
戦闘は幕府軍より近代兵器を多く所持する新政府軍が人数で勝る幕府軍を劣勢に追い込んでいきました。
ついに、幕府軍の総大将として大阪城に詰めていた徳川慶喜が老中など側近と共に密かに城を脱出、江戸方面へ退却しました。
総大将がいなくなった幕府軍は敗北が決定的となりました。
近畿方面で幕府が新政府軍に敗北したので、大坂、兵庫、堺といった幕府の直轄地では権力の空白が生まれ、混乱していました。
大坂城代、大坂東西の奉行所、兵庫奉行所などに勤め、治安や行政といった業務を担っていた下級の役人が新政府軍の復讐を恐れ、身を隠してしまったのです。
そこで新政府軍は大坂に薩摩藩、兵庫には長州藩そして堺は土佐藩とそれぞれ担当の藩を決め、幕府に代わって治安維持活動をするために藩士や歩兵隊を派遣しました。
そして逃げていた幕府の下級役人を元の職務に復帰させました。
堺には土佐藩の大目付、杉 紀平太と目付、生駒静次が箕浦元章率いる六番歩兵隊40人と西村氏同率いる八番歩兵隊33人を差し向けました。
【承】堺事件 のあらすじ②
横浜に停泊していたイギリス、フランス、アメリカ等、欧米列強の艦隊が大坂の天保山沖へ向かいました。
2月15日、フランスの艦艇から水兵が20艘の艀(はしけ)に分乗して無許可で堺の港へ上陸しました。
堺の治安維持に当たっていた六番歩兵隊と八番歩兵隊は大目付杉から上陸した水兵を艦艇に追い返すように命令を下され、港へ駆けつけました。
堺は外国人の居留地ではなかったので、パニックに陥った人々も少なからず出ました。
しかもフランス軍水兵は堺の人々に対し蛮行こそ働きませんでしたが、列強の武力を背景とした傲慢で軽率な振る舞いをします。
さらに駆けつけた歩兵隊が所属する土佐藩は元々親幕的なフランス軍を快く思っていません。
通訳の不在なども重なって双方は銃の撃ち合いにまで発展しました。
しかし水兵が短銃しか携行しておらず、ライフル銃で武装していた歩兵隊の一斉射撃などで一方的にフランス軍側は13人の死者を出し、命からがら自国の艦艇に戻っていきました。
【転】堺事件 のあらすじ③
フランス公使レオン・ロッシュは朝廷を通じて新政府軍に損害賠償の要求を突きつけました。
土佐藩主がフランスの艦艇に直接出向いて謝罪すること、戦死した水兵の家族に対する賠償金の支払い、さらに水兵を射殺した歩兵隊から20人を選び出し速やかに処刑すること、といった内容でした。
新政府軍は幕府軍に鳥羽・伏見の戦いで勝利したとはいえ、江戸は無傷で、依然として幕府軍は政府軍と戦う戦闘能力を保持していました。
列強のひとつ、フランスと事を構える余裕はありません。
土佐藩はすぐに水兵を銃撃した歩兵隊員20人の処刑要求を?んでしまいました。
前土佐藩主山内豊信(とよしげ)の名代としてフランス公使との交渉に当った土佐藩家老深尾 鼎(かなえ)、大目付小南五郎右衛門は部下の下横目(したよこめ:土佐藩の警察機構の役人)を使って大坂長堀の土佐藩邸に軟禁中の歩兵隊員から銃撃に関わった29人を特定、その中で六番、八番隊の隊長と組頭4人の責任は免れないと判断しました。
そして射撃命令に従った歩兵隊員25人から16人を選び出すことになりました。
25人の生死を分ける手段に土佐藩主山内豊範(とよのり)の発案で、くじ引きを使うことになったのです。
当たりくじを引いた16人は引き続き長堀の土佐藩邸で軟禁下にありましたが、手厚い待遇を受けていました。
処刑が明日に迫る中、八番隊士土居八之助の提案で同じ八番隊の竹内民五郎が他の隊士と共に処刑の方法を斬首ではなく名誉を重んじる切腹に変更を希望する旨、大目付小南に直談判を行ないました。
最初は渋っていた小南も理路整然と正当性を主張する竹内に押され、ついに切腹を承諾します。
さらに士分への取り立ても小南に約束させました。
【結】堺事件 のあらすじ④
1868年(慶応4年)2月23日、処刑が決まった歩兵隊員20人をそれぞれ乗せた駕籠が大坂長堀の土佐藩邸を出発しました。
駕籠の前後や周囲は細川熊本藩と浅野広島藩の歩兵隊で固められ、後方には土佐藩の関係者が続くといった大行列の様相で目的地である堺の妙國寺へ向かいました。
妙國寺に到着すると天幕をはじめ切腹の準備はすでに整っていました。
臨検の席には外国事務総裁山階宮(やましなのみや)、細川藩、浅野藩そして土佐藩の重職が並んでいました。
その中にフランス公使ロッシュと随行の兵士20数人も加わっていました。
切腹は作法に則って淡々と進められていきます。
しかし切腹を初めて見るロッシュは次第に落ち着きを無くしていくのでした。
11人目の切腹が終わったとき、ロッシュが突然、席を立ち、随行の歩兵と共に艦艇に帰ってしまったのです。
切腹は延期になりました。
その後ロッシュから残っていた9人の助命嘆願が出され、9人は土佐藩領内で流罪となりましたが、異例の厚遇を受けました。
堺事件 を読んだ読書感想
堺事件は幕末、戊辰戦争が開始され混乱の極みにあった時期に起こりました。
幕府の支配が安定していた時代や新政府の支配が軌道に乗り始めた時期であればこのような不幸な結末にはならなかったかもしれません。
大目付の小南は処刑が決まった歩兵隊員と対面した当初、本心はともかく立場上、銃撃した歩兵隊をフランスの主張に沿って、職務に忠実だった土佐藩の兵士にもかかわらず犯罪者扱いしていました。
「お前たちには道理がなかった」と言い放つ小南に対し、処刑を翌日に控えた八番隊の竹内が「隊長の命令に従って撃ったのであって、道理にかなっているかそうでないかを考えて撃ったのではありません、いちいち隊長の命令に道理を考えていては戦争はできません」と理路整然と自分たちの正当性を展開します。
竹内の迫力に押され、小南が自分のことばを撤回する場面があります。
この竹内の台詞こそ、この小説の核心だと思いました。
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