体がだるい。
カーテンからさし込む朝日が、けだるく起きるのがおっくうだ。
枕元にある、スマホを眺めても誰からもメッセージがない。
志織がメッセージをしなければ、坂下から朝のあいさつもない。
いつからだっただろうか。
まだ付き合ったばかりのころ、坂下はまめにメッセージをくれた気がする。
そして、何度も読み返した。
「仕事に行かないと」
まるで仕事に追われて、仕事がつらい時期に戻ってしまったようだ。
今は、仕事に助けられている部分もある。
もし、坂下との恋愛だけだったら、きっと参ってしまっていただろう。
何も考えないほどに、仕事に没頭しているときが、一番幸せな時間だ。
こうやって一人になる時間が増えると、考えるのは坂下のことばかりだ。
「目の下、まっくろ」
顔を洗おうと洗面台の前にたつと、ひどい顔をした女性がいた。
こんなにやつれてしまっているのは、誰だろう。
他人のような感じもする。
恋愛にここまで引きずられることなど、人生でなかった。
確かに付き合いたては楽しいし、別れは悲しい。
でも、こんなに身を削られるような痛みはなかった。
「全然、メイクがのらない」
ファンデーションを肌に乗せても、すべってしまっている気がする。
パウダーが密着しない。
自分には合ってはいないメイクのような気がしてきた。
何度も重ねても、自分の顔にならない。
自分の本当の姿はどこへ行ってしまったのだろうと思う。
志織は満足のいかないメイクにうんざりしながら、仕事の準備を始めた。
*****
「おめでとうございます」
同じ課の女性社員が、同じ会社の男性社員と結婚することになった。
昼休みにランチを一緒にして、話しを聞いた。
挙式は親族のみで、ハワイでおこなうという。
きれいな彼女は、きっと純白のドレスも似合うだろう。
今の自分には、望めない美しい光景。
「井口さんも、お付き会いしている人いるんですか?」
幸せでいっぱいの彼女からの、何気ない言葉が胸に刺さる。
志織はなんと答えればいいのか、わからなかった。
一緒にライチを食べていた同僚からも、期待されるまなざしを受ける。
「うーん、それらしい人はいるかな?」
「井口さんかわいいから、もてるなって思っています。守ってあげたいって思わせちゃう感じ」
「そんなこと、ないよー」
幸せな人からの言葉がつらい。
心の奥から祝福しているはずなのに、恨めしい気持ちになってしまう。
自分には手に入れられない幸せがねたましい。
「じゃあ、わたし先に仕事あるから。戻りますね」
心地の悪さに早めに食事を切り上げることにした。
食堂からオフィスまで、多くの人が横切っていく。
仲睦まじく歩くカップルも多い。
いくつかの会社が入っているビルだから、食事のときは、落ち合ってご飯を食べているカップルも多いのだろう。
同じ会社であっても、志織と坂下はひとめの多いところでランチを食べることはない。
社内の人間は、坂下を独身だと思っているらしい。
しかし、どこで坂下が既婚者とばれるかはわからない。
人には見せられない秘密の関係――――
言葉の響きは刺激的で、物語だったらきっと興味本位でのぞいてみたくなるかもしれない。
だが、実際に秘密の関係を貫くには、志織にはきつすぎた。
すると、携帯にメッセージが入ってきた。
坂下からだった。
今夜も一緒にご飯を食べようというものだった。
志織はメッセージ画面を開いて、それを削除するボタンを表示する。
この恋愛がきついなら、坂下をあきらめることができるのか。
志織は、メッセージ画面をみたまま、削除ボタンを押すことはできなかった。
「だって、好きだから……」
携帯をポケットにしまうと、ベンチに設置してあるテレビ画面が目に入る。
『今日の特集は、来日している演奏家のSARAさんです』
数日前から、テレビで坂下の妻SARAの特集を見かける。
見ないようにしたが、こういう不意打ちが一番しんどい。
志織は拒否するように、慌ててオフィスに戻ろうとする。
しかし背後からは、テレビの音が迫ってくる。
『今回のツアーも大成功でした。連日チケットは完売でして、日本でも根強い人気がうかがわれます』
タイアップされた曲が、コマーシャルでも流れる。
音楽が耳に残る。
あの曲は、前に聞いたことがあった。
坂下から借りたCDのなかに収録されていた気がする。
その音楽は、テーマが別れだった。
不倫した男女が、どこまでも逃げて隠れて、果てには疲れてお互いを傷つけていく映画だった。
たしか、山本とみた映画も不倫ではなかっただろうか。
あの映画も、最後はアンハッピーエンドだった。
不倫でハッピーエンドなんて聞いたことがない。
世間では、不倫などだめだというニュースが流れる。
でも、自分は不倫ではない。
気持ちは本物なのだからと、何度も言い聞かせてきた。
「井口さん?」
「……林さん」
志織は声をする方向へ顔を向けた。林美佳だった。
最近は、一緒に飲みに行くことも少なくなった。
坂下と付き合う前は、よく一緒にいた同期のひとりだ。
「大丈夫?顔色がすごく悪いけれど」
「ううん、大丈夫」
志織は、美佳に支えられると気を失いそうになる。
寝不足がたたったようだ。目眩がする。
「医務室、行こうか?」
志織はどうにか頷いて、医務室に連れていってもらった。
寝不足と貧血だった。
ご飯も食べていないことが多かったからだ。
それから、しばらくベッドで横になることになった。
自分が情けなくなる衝動が強くなる。仕事も中途半端で、恋愛もだめ。
坂下の妻、サラに勝てる要素が見つからない。
絶望で目の前が真っ暗になった。
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