【オフィスのアネモネ】第24話「黒い視界」

オフィスのアネモネ

体がだるい。

カーテンからさし込む朝日が、けだるく起きるのがおっくうだ。
枕元にある、スマホを眺めても誰からもメッセージがない。

志織がメッセージをしなければ、坂下から朝のあいさつもない。

いつからだっただろうか。

まだ付き合ったばかりのころ、坂下はまめにメッセージをくれた気がする。
そして、何度も読み返した。

 

「仕事に行かないと」

 

まるで仕事に追われて、仕事がつらい時期に戻ってしまったようだ。
今は、仕事に助けられている部分もある。

もし、坂下との恋愛だけだったら、きっと参ってしまっていただろう。

何も考えないほどに、仕事に没頭しているときが、一番幸せな時間だ。
こうやって一人になる時間が増えると、考えるのは坂下のことばかりだ。

 

「目の下、まっくろ」

 

顔を洗おうと洗面台の前にたつと、ひどい顔をした女性がいた。
こんなにやつれてしまっているのは、誰だろう。
他人のような感じもする。

恋愛にここまで引きずられることなど、人生でなかった。
確かに付き合いたては楽しいし、別れは悲しい。
でも、こんなに身を削られるような痛みはなかった。

 

「全然、メイクがのらない」

 

ファンデーションを肌に乗せても、すべってしまっている気がする。
パウダーが密着しない。
自分には合ってはいないメイクのような気がしてきた。

何度も重ねても、自分の顔にならない。
自分の本当の姿はどこへ行ってしまったのだろうと思う。

志織は満足のいかないメイクにうんざりしながら、仕事の準備を始めた。

 

 

*****

 

 

「おめでとうございます」

 

同じ課の女性社員が、同じ会社の男性社員と結婚することになった。
昼休みにランチを一緒にして、話しを聞いた。
挙式は親族のみで、ハワイでおこなうという。

きれいな彼女は、きっと純白のドレスも似合うだろう。
今の自分には、望めない美しい光景。

 

「井口さんも、お付き会いしている人いるんですか?」

 

幸せでいっぱいの彼女からの、何気ない言葉が胸に刺さる。
志織はなんと答えればいいのか、わからなかった。

一緒にライチを食べていた同僚からも、期待されるまなざしを受ける。

 

「うーん、それらしい人はいるかな?」

「井口さんかわいいから、もてるなって思っています。守ってあげたいって思わせちゃう感じ」

「そんなこと、ないよー」

 

幸せな人からの言葉がつらい。

心の奥から祝福しているはずなのに、恨めしい気持ちになってしまう。
自分には手に入れられない幸せがねたましい。

 

「じゃあ、わたし先に仕事あるから。戻りますね」

 

心地の悪さに早めに食事を切り上げることにした。
食堂からオフィスまで、多くの人が横切っていく。

仲睦まじく歩くカップルも多い。
いくつかの会社が入っているビルだから、食事のときは、落ち合ってご飯を食べているカップルも多いのだろう。
同じ会社であっても、志織と坂下はひとめの多いところでランチを食べることはない。

社内の人間は、坂下を独身だと思っているらしい。
しかし、どこで坂下が既婚者とばれるかはわからない。

 

人には見せられない秘密の関係――――

 

言葉の響きは刺激的で、物語だったらきっと興味本位でのぞいてみたくなるかもしれない。
だが、実際に秘密の関係を貫くには、志織にはきつすぎた。

 

すると、携帯にメッセージが入ってきた。
坂下からだった。

今夜も一緒にご飯を食べようというものだった。
志織はメッセージ画面を開いて、それを削除するボタンを表示する。

この恋愛がきついなら、坂下をあきらめることができるのか。

志織は、メッセージ画面をみたまま、削除ボタンを押すことはできなかった。

 

「だって、好きだから……」

 

携帯をポケットにしまうと、ベンチに設置してあるテレビ画面が目に入る。

 

『今日の特集は、来日している演奏家のSARAさんです』

 

数日前から、テレビで坂下の妻SARAの特集を見かける。
見ないようにしたが、こういう不意打ちが一番しんどい。

志織は拒否するように、慌ててオフィスに戻ろうとする。
しかし背後からは、テレビの音が迫ってくる。

 

『今回のツアーも大成功でした。連日チケットは完売でして、日本でも根強い人気がうかがわれます』

 

タイアップされた曲が、コマーシャルでも流れる。
音楽が耳に残る。

あの曲は、前に聞いたことがあった。
坂下から借りたCDのなかに収録されていた気がする。

その音楽は、テーマが別れだった。
不倫した男女が、どこまでも逃げて隠れて、果てには疲れてお互いを傷つけていく映画だった。

 

たしか、山本とみた映画も不倫ではなかっただろうか。
あの映画も、最後はアンハッピーエンドだった。

不倫でハッピーエンドなんて聞いたことがない。
世間では、不倫などだめだというニュースが流れる。

でも、自分は不倫ではない。
気持ちは本物なのだからと、何度も言い聞かせてきた。

 

「井口さん?」

「……林さん」

 

志織は声をする方向へ顔を向けた。林美佳だった。

最近は、一緒に飲みに行くことも少なくなった。
坂下と付き合う前は、よく一緒にいた同期のひとりだ。

 

「大丈夫?顔色がすごく悪いけれど」

「ううん、大丈夫」

 

志織は、美佳に支えられると気を失いそうになる。
寝不足がたたったようだ。目眩がする。

 

「医務室、行こうか?」

 

志織はどうにか頷いて、医務室に連れていってもらった。

寝不足と貧血だった。
ご飯も食べていないことが多かったからだ。
それから、しばらくベッドで横になることになった。

自分が情けなくなる衝動が強くなる。仕事も中途半端で、恋愛もだめ。
坂下の妻、サラに勝てる要素が見つからない。

絶望で目の前が真っ暗になった。

コメント