『今夜、一緒にご飯を食べないか?』
志織は坂下からのメッセージを確認した。
坂下の部屋で女性もののシャツをみてから、連絡をしていなかった。
いつもは、朝のおはようから、夜のおやすみまで一言送信していた。
坂下と体を重ねてから、ずっと志織の習慣となっていた。
朝起きても体がだるくて、メッセージを送る気力もなかった。
最近、夜もゆっくり眠ることができていない気がする。
いくら寝ても、寝た気がしないのだ。
『はい、わかりました』
愛想をよくする言葉も浮かばない。
こんなに素っ気なくしたら嫌われてしまう、と思った。
ただ、言葉をフォローするのにも、どんな言葉を送ればいいのかわからない。
自分が何を感じて、何に悲しくなっているのか、わからなくなってきた。
きっと、自分のこころはマヒしたままなのだ。
これ以上、坂下を疑って悲しくなりたくない。
好きな気持ちは前と変わらない。
だが、今は幸せな気分よりも、苦しくてつらい恋になっていると自覚したくなかった。
「わたしは、大丈夫」
志織はまだ坂下を好きな自分を確認した。
まだ、大丈夫。
坂下を好きな自分はぶれていない。
好きでいれば、きっと報われる日がくるのだ。
この思いは純粋なものだと信じていた。
*****
「顔色が悪いけれど、大丈夫?」
「え、悪いですか?」
坂下と久しぶりに食事をしながら、心配そうに聞かれた。
志織ははじめて言われたとばかりに、少しオーバーなふりをして驚いた。
「うん、少し痩せてしまった気がして。食べてない?」
「はい、ちょっと仕事が忙しくて。確かに、夜は眠れてないかもしれませんね」
志織は愛想笑いをした。
きっと坂下は気がついてない。こんなに苦しんで、悩んでいることを。
それは、そうだ。
いつも都合のいい女を演じて、笑顔で接する。
自分が望んだ関係なのだから。
きっと本心を言っても、困らせてしまう。
最初は、都合のいい関係でいいと言ったのは自分。
坂下のそばにいられれば、幸せだと思ったのも自分なのだ。
そう、最初はそれで十分だった。
「じゃあ、今日はたくさん食べて。肉でも食べに行く?」
「いいですね。最近、食べてなかったかも」
志織は最近食べたものを思い出せなかった。
確かに適当にスーパーで買ってきて、おなかが減ったら何かを食べていた。
だが、おなかがすいたといっても、これが食べたいという衝動はなかった。
「和牛がおいしい店に連れて行くよ」
坂下はやっぱり優しい。
こんなときに、ひどい言葉でののしってくれたら嫌いになれるかもしれないのに。
会えば、優しくしてくれるし、志織を優先してくれる。
嫌いになる理由がないのだ。
「以前、連れてきてもらったことがあった。ここだよ」
和牛を扱うレストランに連れていかれ、量は食べられない志織に極上の肉をおごってくれた。
どれもサシがキレイにはいったもので、舌でとろける甘さがあった。
そのおいしさは、志織にとって深くしみるものだった。
「おいしいです……」
「そうだろう?俺も、驚いたよ」
坂下は笑顔を向けてくれる。
優しくて、かっこいい。
でも、志織はその坂下の弱さも知っている。
彼の優しさは、弱さもともなっているからこそ、心地がいいのだ。
「ど、どうしたの?井口さん」
不意に坂下が慌てた。志織は首をかしげた。何を驚かれているかわからない。
「涙……」
「わたしったら」
慌てて頬をさわった。
気がつかないうちに涙があふれていた。
坂下の前では、泣いてはいけない。
何度も何度も誓ったのに――――
情けない涙腺は、ここでも暴れている。
「やっぱり調子が悪いのかな?連れ回してごめんね」
「そんなことないです。お肉がおいしくて、感動しちゃったのかな」
志織はバッグからハンカチを取り出した。
大きく息を吸って、涙を止めようと自分に言い聞かせる。
「無理、させているよね」
「…………」
志織は涙をぬぐっていると、坂下は箸を置いて、真っすぐ志織を見つめた。
何を無理しているのか、坂下はある程度わかっているのだろう。
「坂下さん、やっぱりわたしたちこのままなのでしょうか」
「離婚、か。うん……考えてはいるけど」
「できないってことですか?」
「うん……」
坂下の返事は歯切れが悪い。
そう、彼の弱さはこういうところだ。志織は言葉を続ける。
「だったら、わたしと別れますか?」
「それは……したくない」
わかっていた。坂下は、妻とは別れられない。
かといって、志織を切るほどの強さもないのだ。
志織は彼に尽くしてきた。
心地がいい空気を作ろうと必死に考えてきた。
「ごめん、もう少し待ってほしい」
待ってほしい――――
以前だったら、きっとこの言葉に希望をもっただろう。
待っていれば、彼は自分のものになる。信じて疑わなかった。
だが、今はその言葉も耳からすり抜ける。
きっと、待ち続けるだけになるだろうという予感があった。
「ご飯、食べましょう」
志織は笑顔をつくった。
せっかく二人の時間だ。
おいしいお肉を目の前に、泣いているのはもったいない。
ぎこちない空気をもちながらも、そのあとは平穏に時間が過ぎて行った。
その一方で、志織は自分のこころがもっと冷え冷えと凍っていくのを感じていった。
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