【オフィスのアネモネ】第19話「不思議なくうき」

オフィスのアネモネ

 

「坂下さん」

 

志織は、スーツ姿の男性を見つけて自然と笑顔になった。
数日、坂下の出張が続いていたので会社で、ふたりきりで会うのは久しぶりのような気がした。

先日、坂下が離婚という言葉を初めて口にしてくれた。
志織は不安が少し軽くなった気がしている。

 

信じていれば、坂下とずっと一緒にいられる――――

願いがかなうかもしれないという希望がもてたからだ。

 

「井口さん、仕事はどう?」

「はい、最近はちょっと暇になってきました」

「こっちも少し落ち着いてきたよ」

 

出張のあとの手続きがあって、午前中は少し慌ただしかったようだった。
坂下は午後にはゆっくりできるらしく、自動販売機の前にきて一服していた。

志織も比較的この時期はゆっくり仕事ができる。
仕事が一段落したら、コーヒーを買いにきた。

 

「あれ、坂下さんと井口さん」

ふいに声が聞こえてきた。

山本だった。

山本も仕事が落ち着いたようで、一服しに自動販売機の前にくることもある。

志織と山本でコーヒーを飲みながら、仕事について打ち合わせをした。
何気ない雑談もすることが増えてきた。

 

もともと山本は、女性の好きそうな話題も得意だ。
おいしいデザートの話や、流行のテレビについても話してくれる。

山本と一回映画デートをしてから、特に誘いらしきものはなかった。

しかしこうやって仕事の合間にお互いの興味あることを話していると、志織は山本に親近感をもてるようになった。

 

山本はアイドルのようなかわいらしい顔つきだ。

だが、趣味は男らしいものが好きらしく、アウトドアはもちろん、格闘技も好きだと知った。
スポーツはやるのも、観戦するのも好きらしい。

 

志織は話していると、今までにない感覚を感じることもある。

坂下はインドアで大人な雰囲気であるが、山本は年代も近くので、やんちゃな兄弟みたいな感じである。

山本に親近感をもつと、デートを誘うような軽口は以前より抵抗がなくなった。
坂下との関係を前向きになれているから、志織自身心の余裕もてているのかもしれない。

 

「坂下さんってブラックコーヒーばかり飲みますよね」

「山本くんは、ブラックはだめだった?」

 

坂下と山本も気安い感じで会話をしている。
趣味は違うふたりであるが、お互いサバサバしているところがあるから、距離感がいいのだろう。

三人で一緒にいても、違和感をもつことはない。

 

男のひとなのに、不思議――――。

 

志織はこの三人でいる空間に驚いていた。
男の人と一緒にいると、いろいろと気を遣う。

同性とは違って、異性を感じるからこそしぐさや行動を意識する。

まして自分が好意をもっていて、もう片方の男性には好意をもたれている関係性なのだ。

だから余計気をつかうはずだ。

けれど、こうやって三人で一緒にすごす時間は自然な自分でいられるのだ。

志織にとっては、山本も坂下も居心地がいい相手なのだろう。

 

「どうしたの?井口さん」

「ううん」

 

志織が黙っているのを不思議に思ったのか、山本は声をかけてくれた。
志織は首を横にふった。

そんな様子を、坂下はじっと見ていた。

 

*****

 

「坂下さん体調が悪いのですか?

「え、悪くないけれど」

 

今日も会社の帰りに小料理屋に寄って、そのままアパートに送ってもらうことにした。

最近は、坂下の家に行く回数も減った気がする。
といっても、仲が疎遠になったわけではない。

 

週末は、金曜の夜から彼の部屋に行って、ご飯を一緒に食べて、そして眠る。
週末だけの半同棲である。

濃い週末をおくっているので、平日は何気ない会話をして別れることが多くなった。

しかし、今日の坂下は黙っていることが多かった。
いつもは多弁ではないものの、志織に優しく話題を振ってくれるので、珍しいこともあるものだ。

忙しいから風邪でも引いたのだろうかと、志織は不安になる。

 

「気にしてくれてありがとう。でも、大丈夫だから」

「そうですか、無理しないでくださいね」

 

それから沈黙がおとずれる。
いつもだったら気にならない沈黙が、今日は妙に気になる。

何か話した方がいいのだろうか、と話題を考える。
だが、そんなときに限ってすぐに話題が思い浮かばない。

 

「井口さん、携帯鳴っているよ」

「え……」

すると、坂下が志織のスマホのバイブレーションに気がついて声をかけてきた。

今日は、サイレントモードにしていなかった。
志織は慌ててスマホの設定を直そうとした。

すると、着信相手は、山本だった。

 

『井口さん、来週空いている?また恋愛映画のチケットもらって、困ってるんだ』

 

志織はクスリとメッセージをみて笑った。
恋愛映画なんて、山本は退屈できっと寝てしまうに違いない。

 

「井口さん、顔が笑っている」

「笑っていました?」

 

志織は無意識だった。
そんな志織の様子に、不機嫌な様子を見せる坂下。

また沈黙が訪れる。
返信は家に帰ってからしようと思って、スマホの設定をサイレントモードにかえた。

 

そのまま家に到着するまで、ほとんど無言のままであった。
こんな険悪な空気ははじめてだ。

坂下が不機嫌になるなんて、気がつかないうちに悪いことでもしたのだろうか。

志織の不安はさらに膨らむ。

 

志織にとっては、坂下が一番の存在だ。
今でも結婚したいと思っているし、坂下が離婚してくれるなら世界一喜んでしまうだろう。

志織の心を乱すのは、いつも坂下だ。

彼のそばにずっといられることを思いながら、坂下がアパートから離れていく後ろ姿を見送った。

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