志織は告げられた事実に、頭が混乱したままだった。あのあと、坂下の熱がおちついたら、家を出てきた。それからの記憶があいまいだ。結婚しているという事実が受け入れられなかった。
「井口さん、井口さん!」
「え、山本くん……なに?」
名前を呼ばれているのに、気がついて意識を戻した。
「大丈夫?ぼんやりしているから。ここのところ調子が悪い?」
「いえ、そんなこと……」
「坂下さんも元気になったし。大変だよな、また出張だって」
「新しいプロジェクトがあるから忙しくなっていますよね」
坂下はまた出張に出かけている。あれから詳しいことを聞くことができず、メールもしていない。坂下からも、お見舞いのお礼はしてくれたが、告白の返事はそのままにされている。返事といっても、断られたようなものだ。
断られたといっても、結婚している気配を感じられない。家の様子をみても、生活感がなく、坂下いがいの人間が住んでいるとは思えなかった。一緒にいる時間も長くなっていたが、彼が女性と一緒にいるところを見たことがない。
「坂下さんって、結婚しているのですか?」
「え、どうしたの?井口さん」
「いえ、なんとなくそう思って」
「坂下さんと仲がいいと思うから知っていると思うけど、独身でしょう。家族の気配ないし」
「ですよね」
山本に聞いても、やはり坂下は独身だと思っている様子だった。会社の人間も、知っているひとは多くはないのだろう。
「確かに、坂下さんの年齢だったら結婚している人は多くなってくるだろうし。ただ、坂下さんってあまり人間を寄せ付けない感じはするから。独身っぽい感じはするな」
「山本くんもそう思う?」
「うーん、言葉にするのは難しいけれど。一線引いている感じはする。なれなれしい感じがないから、上司としては楽だけど」
「坂下さんって不思議なひとだよね」
「井口さん、やっぱり坂下さん好きでしょう?」
「え……」
「やっぱり。でも、おすすめしないかな。坂下さんって複雑な感じがする。俺だったらシンプルでわかりやすいから、おすすめだよ」
「またそんなこと言って。すぐ冗談をいうから」
「そんなことないって。冗談も少しあるけど、本気も入っているよ。嫌われたくないから、気をつかっているだけ」
山本は少しずつアピールをしてきてくれる。直接デートに誘われたことはないが、こうやって雑談しながら、笑いを含んだ冗談をいうのだ。志織はその軽い感じが今は救われた。油断すると、仕事中でも坂下のことを考えてしまう。それから数日後、坂下からメールがあった。
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「ごめんね、呼び出してしまって」
「いえ、出張が続いているのに……お疲れさまです」
坂下からメールがあって、久しぶりにご飯を食べにいこうと誘われた。いつもの小料理屋だった。坂下は、出張のお土産をくれた。チョコレート菓子だった。それから料理を食べながら、最近のことを話した。店を出て、アパートまで送ってくれることになった。
「井口さんには、この前お世話になってしまったから。俺を早く言わないとなって思ったけど、なかなか言えなくてごめんね」
「気にしないでください、自分の好きでしたことですから」
「助かったよ、久しぶりにあんな熱でたから」
「坂下さん……」
志織は会話をさえぎるように名前を呼んだ。
「どうした?」
「あの、本当に結婚していますか?会社のひとも……知っていますか?」
「誰か聞いた?」
「なんとなく……でも誰も坂下さんのこと独身だって言います。だってそうでしょう?奥さんの気配もないし、こうやって時間を作ってくれるし。信じられないです」
「そうだよね」
「だから、わたし諦められないです。坂下さんが、体調が悪くなったときに……助けてもくれないひとを家族と思えないです。わたしだったら、いつでもそばにいて看病できます。お料理だってできます。あんな、広い部屋でひとりにさせておきません」
「井口さん、ありがとう」
「坂下さんはずるいです、あんなこと言っておいて。告白を断るために、結婚しているって言っているのかって……疑ってしまいます」
「本当なんだ……会社のひとは知らない」
「じゃあ、なんで優しくしてくれるんですか」
「自分でもよくわからない。井口さんを見ていると、昔の自分を見ているような気分になる。一生懸命で、まっすぐで。放っておけない」
「放っておけないなら、わたしだって」
志織は坂下の腕を引っ張った。そして腕に抱きついた。
「結婚しているって知っても、好きなんです。いけないことだってわかっているのに」
「ごめん……」
「坂下さんが結婚していても、わたしあきらめられません。だめだってわかっています……でも気持ちはうそをつけない。好きです……」
坂下はずるい。志織は涙が出てきた。ずるい坂下を突き放せない自分もずるい。志織は顔を上げて、背伸びをした。そして奪うように唇を重ねた。坂下は避けもしない。ただ志織を抱きしめたくれただけだ。坂下の腕はあたたかい。離れたくないほどに。
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