著者:島口大樹 2022年8月に講談社から出版
遠い指先が触れての主要登場人物
萱島一志(かやじまかずし)
二十三歳くらい。地銀に勤務。小さなときに児童養護施設にいた。
中垣杏(なかがきあん)
二十五歳くらい。キャバクラ嬢。十八歳まで児童養護施設にいた。
大山(おおやま)
施設の院長に、記憶の操作について交渉した男。
老人(ろうじん)
山中に住む慈善家。作中に名前は出てこない。
遠い指先が触れて の簡単なあらすじ
地銀で働く萱島一志のもとへ、中垣杏が訪ねてきます。
ふたりは昔、同じ児童養護施設に入っていた知り合いでした。
杏は、施設にいた頃、自分たちの記憶は消されたのだ、と話します。
ふたりは、記憶の操作を行なった大山という男と会って、真実をさぐろうとするのですが……。
遠い指先が触れて の起承転結
【起】遠い指先が触れて のあらすじ①
萱島一志は、地方銀行の東京支店に勤めています。
両親を早くに亡くした彼は、施設に入れられましたが、その後、静岡の家庭に引きとられました。
施設にいたころ、ウサギに餌をやろうとして、左手の小指と薬指を噛まれ、第二関節から先がなくなりました。
一志はときどき、その「無い指先」が、さまざまのものに触れる感触を覚えるのです。
さて、銀行に勤めて半年ほどたったころ、中垣杏という女性が一志を訪ねてきました。
杏は、昔、一志と同じ施設にいて、そこそこ仲のよかった女性です。
彼女は高校まで施設にいて、その後は事務職についたものの肌が合わず、いまはキャバクラで働いています。
そんな杏が、今回一志のところへ来たのは、亡くした記憶についての用件でした。
彼女は、半年前にやってきたお客のことから話します。
お客というのは、施設の院長の娘です。
娘は、杏と一志が記憶を消された、という話を持ってきました。
昔、大山という男が院長に交渉して、ふたりの記憶を操作したというのです。
院長はそのことをひどく気にしていました。
娘は、いまは認知症になった父親に安らかな余生を送らせてやりたい、と思って、杏に会い、一志のほうにも話をしてほしい、と願っているのでした。
【承】遠い指先が触れて のあらすじ②
一志は、幼いころになくなった記憶、つまり、なくなった自分があったとしても、それはいまの自分とは違う自分であり、関係ない、と考えます。
しかし、なくなった自分のことを知らないフリをしているのも、なにか違う、というふうにも思います。
杏も同様の考えでした。
ふたりは休日に待ち合わせて、大山の事務所を訪ねます。
事務所にはだれもいない様子でした。
別の日に行っても、留守でした。
一志と杏は、大山の事務所を訪ねた帰りに、映画を見たりしてデートします。
何度か大山の事務所を訪ねては留守で空振りをくり返すうちに、大山のことはどうでもよくなっていきました。
クリスマスをいっしょにすごしたふたりは、一志の部屋で、初めて肌をあわせたのでした。
年が明け、新年の初勤務を終えた杏は、帰り道で、黒い高級車に待ち伏せされました。
促されて車に乗ると、大山がいました。
杏と一志に、何度も自分のまわりをうろうろされて、不愉快に感じていると言います。
用件は何か、と訊かれた杏は、後日事務所へ行くと約束し、解放されました。
杏は一志の部屋に行き、次の土曜の昼ごろに、いっしょに大山を訪ねることにします。
【転】遠い指先が触れて のあらすじ③
大山のところへ行く前の晩、杏が一志のアパートに泊まって、夕食を作ってくれました。
翌日、朝遅く起きたふたりは、支度をして、大山の事務所を訪ねます。
今度はすんなりとなかへ通されました。
大山は、これは本来機密事項なので忘れてほしい、とだけ告げて、ふたりを帰らせようとします。
そこをふたりが粘ると、事情を教えてくれました。
大山が所属する組織は、子供たちのトラウマになるような記憶を抜き取っているのです。
ニューロンの活動解析と、電気信号による刺激によって、それを実現しています。
その結果、多くの子供たちが幸せに成長できるそうです。
また、集めた記憶のデータは、ときに売却され、組織の資金源となっているとのことです。
大山のところから帰ると、一志はなんとなく納得している様子です。
納得できない杏は、彼の態度にいらだちます。
しかし、しばらくたって、一志は大山に交渉します。
自分たちの記憶を買った人に会って、直接、その記憶がどんなものかを確認させてほしい、と。
二月に入って、相手から承諾の返事が来た、と連絡がありました。
一志と杏は、軽四に乗って、指定された山中へ向かうのでした。
【結】遠い指先が触れて のあらすじ④
一志と杏は、山のホテルに一泊し、ふたりで露天風呂に入り、部屋で互いの身体を慈しみました。
翌日、またナビを頼りに車を走らせ、目的の家に着きました。
大山の部下に出迎えられ、奥へ通されます。
そこには、小ぎれいな老人が待っていました。
以前、恵まれない子供たちへの寄付を行っていた彼は、大山の計画を知り、子供たちが救われると信じて手を貸したのだ、と言います。
ふたりは二階の暗い部屋に案内されました。
大山の部下が三脚をセットしはじめます。
ふたりを撮影するようです。
スクリーンに、いまのふたりの姿が映されました。
次に、一志の記憶データが再現されていきます。
幼いころ、喧嘩する両親、倒れた母親、母親は幼い一志に悪態をつき、突き飛ばします。
そこへ現れた少女が「お母さん、やめて」と叫びます。
母親はそのまま死んだようです。
さて、今度は杏の記憶です。
一志の記憶に登場したのと同じ少女が、女を「お母さん」と呼ぶのです。
どうやら、杏と一志は姉弟らしいのでした。
老人の家から帰って、一志は杏に連絡がつかなくなりました。
必死にさがして、ある日、交差点の向こうに姿を見つけます。
しかし、横断歩道を渡る途中ですれちがったとき、呼びかけたのですが、彼女は一志のことを覚えていないのでした。
「彼女の記憶を消したんだろう」と、一志は大山に詰め寄ります。
大山はとぼけますが、きっとそうだと一志は思います。
杏とふたりでいつくしんだ時間は、もう彼女のなかから消えてしまったのでした。
遠い指先が触れて を読んだ読書感想
「記憶」という、一見はっきりしているようでいて、実は不安定なものをテーマにしています。
主人公ふたりが、自分たちのなくなった記憶を探るために謎の男を追う、というサスペンス仕立ての物語になっていますので、大変に読みやすいです。
さて、技巧上、目についたのが「視点」です。
本作は、一志のほうからは〈僕〉という視点で、杏のほうからは〈私〉という視点で描かれています。
そこまでならよくある二視点での書きかたです。
ところが、この作品では、途中、意図的にふたつの視点をゴチャゴチャとくっつけていくのです。
ふたつの視点が混ざり合うことで、男女の心と身体がひとつに溶けあうさまを表現しているのです。
普通のエンタメ小説では禁じ手とされるようなことを、実にみごとにやってのけています。
すごいなあ、と感心した次第です。
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