著者:小川洋子 2019年10月に朝日新聞出版社から出版
小箱の主要登場人物
私(わたし)
作中の語り手。作中に名前は出てこない。幼稚園の職員だったらしい。
バリトンさん(ばりとんさん)
歌でしか会話できなくなった男性。いまは廃墟になった郷土資料館の元学芸員。
従妹(いとこ)
〈私〉の従妹。作中に名前は出てこない。いまは亡き息子が生きていた時に歩いた道しか歩かない。
クリーニング店の奥さん(くりーにんぐてんのおくさん)
亡くなった子供をしのび、幼稚園の遊具で遊ぶ女性。
元美容師(もとびようし)
頼まれて、子供の遺髪を小さな竪琴に張る女性。
小箱 の簡単なあらすじ
その町では、子供が死に絶え、新たに生まれてくる子もいません。
親たちは、幼稚園の講堂に置かれたガラス箱に、いまは亡き子の成長に関わる物を置いて、子をいつくしみます。
またあるいは、遺骸で作った小さな楽器を耳たぶにぶらさげて、ひとりだけの音楽を聴くのです。
これは、亡き子をいたむ大人たちの、静謐な物語です。
小箱 の起承転結
【起】小箱 のあらすじ①
〈私〉はこの町の幼稚園に住んでいます。
この町の子供はどんどん死んでいき、新しい子供は生まれてきません。
〈私〉は子供のいなくなった幼稚園の小さな備品に身体をなじませていきます。
ときおり、バリトンさんが訪ねてきます。
歌うようにしかしゃべれなくなった男性です。
彼は、入院している恋人からの手紙を持ってきます。
小さな文字がびっしりと敷き詰められた手紙を、〈私〉が解読して、バリトンさんに返すのです。
さて西風の吹くころ、町はずれの丘の広場で、「一人一人の音楽会」が開かれます。
亡くなった子供の骨や歯や髪を使って作った小さな楽器を、親たちは耳たぶにぶらさげ、風で鳴らされる音を聞くのです。
楽器をぶらさげた当人にしか音は聞こえませんが、聞いている人たちをはたからながめるのが、「音楽会」なのでした。
〈私〉の住んでいる幼稚園の講堂には、棚が並べられ、そこにガラスの箱が置かれています。
ときおり、子どもを亡くした人がやってきます。
彼らは子供が生きていたら使うであろう品物などを箱に入れ、子供の死をいたみます。
〈私〉の従妹もまた子供を亡くし、いまでは子供が歩いた道以外の道を歩かないようにして、子供を思いながら暮らしています。
ある日のこと、もう用のなくなった産婦人科の建物が、爆薬を使って破壊されました。
【承】小箱 のあらすじ②
〈私〉の日々は静かにすぎていきます。
死んだ子供をいたむ人は多く、〈私〉はそういう人々のために、淡々と働き続けます。
朝早くから講堂にやってきた男性がいました。
死んだ子に友達を作ってあげようと、指人形を持ってきたのでした。
「友達に名前をつけてもよいものか」と訊かれた〈私〉は、「つけてもよいが、実在の方の名前は避けた方がよい」と答えました。
以前、実在の子供の名前をつけた人がいて、その子供は亡くなってしまったからです。
男性はガラスケースの前で指人形を動かし、ずっと死んだ子供と遊び続けました。
またあるとき、バリトンさんに頼まれ、解読した恋人の手紙を読み聞かせることになりました。
バリトンさんが、〈私〉の声で聞きたい、というのです。
日暮れに近い幼稚園の、雑草だらけの庭を歩きながら、〈私〉は解読した手紙を朗読しつづけました。
どの文も、入院している恋人の愛が綴られていました。
また、亡くなった赤ん坊のことにも触れられていました。
別のある日、〈私〉は閉鎖した歯科医院を訪れました。
その歯科医師は、子供たちがたくさんいたころから、歯科検診のかたわら、木工細工を教えていた人です。
「一人一人の音楽会」のために竪琴を作りたい人に、〈私〉はこの先生を紹介しています。
その日は、先日頼んであった竪琴の枠を引き取りに来たのでした。
また別のある日のこと、講堂に並べたガラス箱がとぼしくなってきました。
〈私〉はバリトンさんと博物館へ行って、ガラス箱を物色しました。
幸い、よいものがいくつも見つかり、用意していった園児用の大型乳母車に載せて、引きあげてきたのでした。
【転】小箱 のあらすじ③
月末の日曜日、クリーニング店の奥さんが来ました。
月に一度来るのです。
彼女は、いつものようにブランコや鉄棒で遊びます。
その胸には、おしゃぶりのペンダントが揺れています。
またある日、従妹が、息子の大学卒業と誕生日を兼ねたお祝いを持ってやってきました。
息子は、生きていれば二十二歳になるのです。
彼女は息子のためにすてきな本を選んできました。
〈私〉たちはケーキを囲んで、ハッピーバースデーを歌いました。
さて、一年に数回、〈私〉は夕食後の特別なぜいたくとして、ビデオテープを鑑賞します。
あまりにも何度も再生したために、擦り切れてきたテープです。
再生した動画のなかで、幼稚園児たちは生き生きとお遊戯したり、お芝居を演じたりするのでした。
やがて温暖な季節となり、バリトンさんは、恋人から贈られた、指紋を編み込んだセーターを着ました。
恋人の指紋が編み込まれているのです。
恋人のほうは、バリトンさんの指紋を編み込んだセーターを着ています。
その恋人からの手紙は、あるとき、ついに文字が小さくなりすぎて、消失してしまいました。
〈私〉はとまどいながら、ペンを口にくわえて、恋人からのラブレターとして解読文を書いていきます。
もはやそれは、恋人の想いなのか、〈私〉の想いなのか、わかりません。
〈私〉はそれをバリトンさんに読んで聞かせるのでした。
【結】小箱 のあらすじ④
夏の終わりに、公民館で「質素な親子工作展覧会」が開催されました。
お菓子の箱などを再利用して作った作品を公開するのです。
もはや子供がいませんから、新しい応募はなく、昔の入選作品を展示しています。
従妹の亡くなった子の作品も展示されました。
そうこうするうち、バリトンさんの恋人が亡くなったという報せが届きました。
それでもバリトンさんは封筒を持ってやってきます。
〈私〉は存在しないラブレターを解読し、バリトンさんに読んで聞かせることで、愛の時をすごすのでした。
さらに日はめぐり、西風の吹く季節がやってきました。
「一人一人の音楽会」が開かれます。
今回は、従妹も参加します。
バリトンさんが彼女を背負って、丘に向かいました。
丘の上には人々が集い、耳たぶに下げた楽器が奏でる音楽を聞きます。
風は吹きやまず、人々は音楽を聞き続けます。
と、ふいに風がやんだかと思うと、つむじ風が吹き狂いました。
風は人々の耳たぶから、楽器をもぎとって、飛ばしてしまいました。
つむじ風が去ったあとには、自分の楽器を探して、丘をとまどい歩く人々の姿があるばかりでした。
さらに月日がたち、今日は従妹の息子の結婚式です。
幼稚園の講堂に、親しい人たちが集います。
タキシードを着た花婿と、ウェディングドレスを着た花嫁の絵を、ガラスの箱に入れます。
小さなケーキを焼き、オルガンを弾き、皆で得意な芸を披露してお祝いしました。
従妹はじっと目を閉じ、まぶたの裏に、我が子の姿を映しているようでした。
結婚式の翌日、初めての人が講堂にやってきました。
中年の夫婦です。
ふたりはガラスの箱をながめました。
このようにして、子をいたむ日々はずっと続いていくのでした。
小箱 を読んだ読書感想
なんとも不思議な物語でした。
子供がみな死んだ、といっても、その死因はほとんど明らかにされません。
ただひたすらに亡き子をいたみ、もし生きていたなら、と、子の成長を夢想する人々の姿があるだけです。
彼らに明日という日はなく、昨日があるだけのように見えます。
ある意味、彼らのほうがむしろ死んでいるのではないか、とさえ思えます。
しかし、その、まるで死んでいるかのようなセピア色の世界が、すばらしい美しさをもって描かれているのです。
作品の雰囲気は、ちょっと比肩する作品がないような気がしますが、あえて言うなら、タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」でしょうか。
映画音楽として使われたJ・S・バッハの「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」の曲は、映画にも似合いましたが、この小説「小箱」にも似合いそうな気がします。
ともかく、きわめて静謐な美の世界が堪能できる小説でした。
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