【オフィスのアネモネ】第3話「優しい手」

オフィスのアネモネ3話
3.優しい手

「ごちそうさまでした」

「いいよ、あれくらい」

「とってもお料理おいしくてびっくりしました。実家の味のような、安心する味でした」

「それ、わかるよ」

 時間としたら、ほんの数十分だったかもしれない。上司の坂下と一緒に、料理のおいし
さを語らいながら、志織はゆっくりした時間を過ごせた。

「わたし、日本酒ちょっと苦手だったんです。でも、坂下さんのオススメのお酒飲んだら
おいしかったです」

「女性でも飲みやすいかもしれないね」

「はい、ワインは飲めるようになったんですけど。日本酒って癖があるような気がして、
苦手だったんです」

「取引先で日本酒専門のお店があって。おすすめをくれるんだ。だから、俺も最初は苦手
だったんだけど、すっかり今ではファンになってしまった」

「自宅にもお酒あるんですか?」

「うん、そこそこね」

 志織はおいしい料理と、おいしいお酒を堪能して、どこかふわふわした気分だった。気
が許せて、少し気になる上司。お店を出て、家に帰る道。まるで一緒に住んでいるカップ
ルみたいな感覚だと思ってしまった。あくまで妄想の範囲だが、もしこのまま一緒に部屋
に帰ったりしたら、わたしはどうなるのだろう?とふと甘い誘惑がこころをよぎった。

「坂下さん、私今日はもう少しお酒飲みたいです。」

「え?」

「じょ、冗談ですよ。ご迷惑ですよね。こんな時間に」

「いや、そうではないけれど」

「誰か家で待っているひといますよね」

 軽い気持ちで誘ってしまった。坂下は戸惑った様子だった。それはそうだろう、自分は
部下。愚痴を聞いてもらっているだけの、手のかかる新人。

「えっと、部屋はひとりだけど」

「え……」

 志織は期待してはいけないとわかりつつも、うれしさを隠せなかった。

「でも、だめだよ。井口さんのご両親に悪いし」

「親は別に……」

「だめだめ」

 子どもをあやすように坂下は笑う。志織は少し甘えたように、頬を膨らませた。坂下は、そっと志織の頭に手を乗せた。

「酔っ払っているよ。結構飲んでいたから。また今度に家に招待するよ、近くだし。今度は昼間にでもね」

「……ごめんなさい、わがまま言いました」

 志織はだんだんわれにかえってきて、自分の言葉が恥ずかしくなってきた。志織の言葉に坂下は首を横にふる。

「井口さんの気持ちもわかるよ、今の時代は人間関係を作りにくいかもしれないな。プライベート重視になったから、心を開いて話せる上司も作りにくいだろう?俺は、先輩たちが飲みに連れて行ってくれたし。同性だから余計連れ回されたよ」

「そうですね、仕事以外で話しをするのは難しいと思います」

「うん、だから弱る気持ちも理解できる。自分を大切にしたほうがいい」

「はい」

「ごめんね、説教くさくなって」

「やっぱり坂下さんだなって安心しました」

 志織は内心ほっとしていた。あんなに簡単に誘いにのるような男性だったら、あとで後悔したかもしれない。

坂下は、優しく紳士だった。同じくらいの年齢の男性ならきっと喜んで応じてくれただろう。少なくとも、付き合った男性はみんなそうだった。大人の男性は、やっぱり違うのだと思った。

「実はわたし末っ子で……姉がふたりいます」

「え、そうなの?井口さんのお姉さんならきれいだろうな」

「自分でいうのも変ですが、姉たちは美人で。わたしと違って、頭もいいし。仕事もできて。全然かなわなくて」

「井口さんだってそうじゃない?」

「わたしは要領がいいだけです。姉たちを見ていたから、どうすればうまくいくかというお手本があっただけ。勉強が嫌いだったから、就職しやすい女子大を選んだし。わたしは全然すごくないです」

「そうかな、でも自分に合う努力をして。結果を残している。別に悪いことではないと思うけれど」

「でも、自分が思った通りに仕事ができなくて。坂下さんにも迷惑かけて」

「大丈夫、それは上司である俺が保証するよ。井口さんは真面目に仕事をしている。足りないのは自信と経験だけ。経験は新人なのだからなくて当たり前だし、自信は仕事ができるようになったらついていく」

「そうなのですか?」

「ああ、今年入った新人で自分はできる!と豪語している子もいたけれどね、それくらい多少は鈍感でいいと思うよ」

「ありがとうございます。坂下さんってすごいですね」

「そうかな?」

「わたし、元気になってきました。また明日からがんばれそうです」

志織は笑顔になって彼を見あげた。またぽんぽんと志織をなでてくれる坂下。

彼の手は暖かく安心できる。志織は末っ子ゆえに、自分が寂しがり屋で、甘えん坊だったことを思い出した。

「もしかしてお兄ちゃんがいたら、坂下さんみたいだったのかな」

「お兄ちゃんか、それはいいね。かわいい妹だ」

 気になる上司から、親しい親戚のようなお兄さんのような気持ちだ。その気持ちは、憧れ半分、男性に対する恋慕もあるかもしれない。でも、やっぱり彼に迷惑をかけてはいけない。

これ以上負担になって嫌われたくなかった。志織はそのまま坂下にアパートの近くまで送ってもらった。

コメント