「井口さん、この前の帰り道は大丈夫だった?」
「この前……」
いつものように会社の帰りに食事をして、坂下の部屋に来た。
そして抱き合い、甘い時間を過ごす。
表向きは今まで通りだ。
坂下がふと尋ねてきた。
それは、数日前に勝手に帰宅したことを指しているのだろう。
まだ、朝が来る前に部屋をひとりで出てしまった。
あれから坂下から連絡があったが、志織が残していた仕事があったからだと返事をした。
もちろん仕事なんかあるわけない。
彼とサラが話している姿など、これ以上見ていたくなかった。
あのまま彼の携帯を奪い取って、壊してしまいそうになった。
もちろん、そんなことはできないけれど――――
「大通りを通って帰りましたし、コンビニの店員さんも掃除をしていて、結構人通りはありましたよ」
「でも、今度からは送っていくから。心配だから」
坂下はいつまでも紳士だ。
志織の見ないところでは、違う女性と連絡をとって悪いとも思わないのに。
いい人なのに、悪いひとだ。
「坂下さん、やっぱり誰かを選ぶことはできませんか?」
「井口さん……、あのとき見ていた?」
「はい、すみません」
志織はベッドから立ち上がって、坂下を見つめた。
視線をそらすことなくまっすぐ彼を見つけた。
「最近、サラは体調を崩してしまって。身の回りのことをしてくれるスタッフさんが辞めてしまったみたいで。誰かに来てほしいって連絡があったんだ」
「坂下さんは行かないのですか?」
「僕が、まさか……仕事があるのに」
「でも、心配ですよね。あんなに電話しているくらい」
「もちろん家族だから。サラは付き合っている人ともうまくいってないみたいで、少し不安定だから」
不安定ならわたしだってそう!
志織は言いたくなる。
ずっと不安定だ。
ご飯もおいしくない。
不意に涙がでる。何かをしようと思っても、何も手につかない。
全部は、坂下を思う余りのこと。
恋煩いなんてぬるいものではない。
恋しくて、苦しくて、悲しくて、憎らしくておかしくなりそうだ。
「もしわたしも調子が悪くなっても連絡してくれますか?」
「それはもちろん」
――ああ、坂下は気がついてない。
周囲のひとが心配をするくらい、自分がやせ細ってきているのに。
彼は目の前の自分を見てはくれてはいない。
彼が心配なのは、サラだけなのだ。
「どちらか選んでほしいと言っても……無理ですか」
「うん、どちらも俺にとったら大切なものだから」
「仕事もサラさんも、わたしもですか?」
「そうだね」
坂下はずるい。
仕事が大切と言って、あんなに愛しているサラのもとへ行かないのは怖いからだ。
もしすべてをなげうって、彼女のもとへ行ったら保険がなくなってしまう。
彼はそんなにすべてを投げ出すほど、若くはないのだろう。
そして、志織を捨てることができるほど非情でもない。
「もう、いいです……」
「え?」
「わたし、坂下さんに何度も言いました。でも、答えはくれないのですね」
「井口さん、ごめん」
「それに悪者になれないから、ちゃんとフッてもくれない。わたし、苦しいです。ずっと、ずっと悩んできました」
「うん、そうだよね」
「いつも優しくて、止めなきゃいけないのにって。いつか好きになってくれて、わたしを選んでくれると思っていました。でも、もう……つらくて苦しいです」
志織は涙を流した。
坂下は困惑しているのか、何も言わない。
「お願いです。もう別れるって言ってください!」
坂下を見つめたが、彼は視線をそらした。
もう、これ以上言っても何も期待できないと思った。これが答えなのだ。
彼は悪者になりたくない。
そして自分からは、動いてはくれないのだろう。
だったら、終わりを告げるのは自分でしかない。
これ以上がんばっても、何も変わらない。
坂下がそれを望んではいないからだ。
この状態が一番いいのは、彼なのだから。
だが志織は限界がきていた。
苦しいならいっそ、終わらせたい。
「坂下さん、さようなら」
志織はそっと彼のベッドから離れていった。
着替えをして、バッグをもった。
彼からもらったものもほとんどない。
帰ってから片付ければ、彼の痕跡などすぐに消すことができる。
濃厚に付き合ったはずの時間も、終わりを決めればあっという間だ。
「井口さん、待って!」
坂下の声が聞こえてきた。
振り返ってはだめだ。ほだされてはだめだ。
志織は決めた。
もう、このマンションには二度と来ることはないだろう。
彼の制止を振り切って、マンションを飛び出した。
そしてスマホの画面を出して、彼との会話をすべて消した。
最後に連絡先も、完全に消した。
連絡先を消す指が、一瞬震えたのは自分でもわかった。
だけれど、迷ってはいけない。
今消すことができなければ、ずっとつらい思いを引きずることになる。
あれから坂下らしき人から連絡もあったが、それも受信拒否をした。
気が重くなるのは、会社で顔を会わすことだ。
次の日になって、坂下は何かいいたそうな顔をしていた。
「おはようございます!坂下さん」
何もないふりをして、まっすぐ彼を見つめた。
自分に合格点をあげたい。
引きずってないように見せることができた。
それだけで、少し気が晴れた。
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