「あれ、リップがない」
志織は、買い物に出かけようとして、メイクをしようと鏡の前に座った。
お気に入りのリップで、気分を上げようとした。
しかし、志織が好きなピンクのリップが見当たらない。
「……化粧直しに、コスメポーチに入れていったかも」
志織はメイク直しに使っている、持ち運びできるコスメポーチの中身を見てみた。
しかし、いつもはあるリップがやはりなかった。
最近このコスメポーチをいつ使っただろうかと考えた。
「あ、坂下さんの家においてきたかもしれない」
最近は、会社のあと一緒に帰ることはなくなった。
しかし週末になると、坂下からメッセージがきて、週末の泊まりだけは継続している。
坂下が仕事で忙しく、なかなかふたりきりで話す機会もとれていないので、その時間がとてもうれしい。
さっそく、坂下のメッセージを送ることにした。
『おはようございます。坂下さんの部屋に忘れものをしてしまったみたいです。取りにいってもいいですか?』
すると、小一時間がたつころに返信があった。
『ごめん、ちょっと手が離せなくて。忘れ物?いや、ちょっと部屋は……』
いつもだったら、部屋に行くことを了承してくれる坂下が、少し困ったような返答があった。
志織は、また嫌な予感が頭をよぎった。
『忙しいですか?また来週にでも大丈夫なので、取りにいっても大丈夫ですか?』
志織がメッセージを送ると、今度はすぐに返信がきた。
『いや、来週は会えないと思う。ごめんね。忘れ物だったら、俺が探して渡すよ』
来週は、会えない――――
そんな文言が何度も頭に残る。
帰宅後の食事も今はない状態だ。
そのなか、週末の泊まりだけが、志織と坂下をつなぐ時間である。
それさえなくなってしまうのだろうか。
『少しだけなので、お時間とってもらえますか?』
志織は、珍しく食い下がらなかった。
悪い想像が何度もよぎる。
今は、坂下の妻が来日している。
つまり、時間が合えば、坂下と妻のサラは会うこともあるだろう。
坂下の部屋は志織が入ることで、生活感を増してきた。
志織が一生懸命に、坂下が居心地よくなるように考えたのだ。
そんな部屋に、他人が入ることが嫌だった。
いや、坂下にとっては戸籍上の家族であるサラは、他人ではないとは思う。
だが、坂下と志織が紡いできた時間が、あっけなく崩れてしまうようで苦しかった。
『わかった、来週に時間をとる。また連絡するね』
坂下は少し時間があいてから、仕方なくといった様子で部屋に入れることを了承した。
志織は少しだけ安心した。
それから、気分もよくなって、買い物をする足取りも軽かった。
*****
「お邪魔します」
「ああ、ちょっと汚いけれど。気にしないで」
坂下の部屋に入ると、少し違和感を覚えた。
いつもと違うかおりがする。
坂下の部屋は基本的に無臭だ。強いかおりはしない。
だが、今は花のにおいがする。
玄関をみると、すてきなポプリが置いてあった。
ウサギの陶器の置物にはいった、紫色のポプリ。
明らかに海外のお土産といったものだった。
志織は、胸騒ぎがした。
「このウサギ、かわいいですね」
「ああ、頂き物で」
坂下はにっこりと笑みを浮かべた。そこにはためらいや狼狽の色はなかった。
サラからのお土産ではなかったのだろうか。
「忘れ物を探していいですか?」
「じゃあ、俺は仕事をしているから」
坂下の姿をみれば、いつもとそれほど変わった様子はなかった。
そうして部屋を見るが、坂下が言うほどではなく、むしろ片付いていた。
ただ、キッチンを使った形跡が色濃く残っていた。
いつもは、坂下は志織がいない限り料理をすることがない。
だが、キッチンにはたくさんの調味料があって、坂下が料理をひんぱんにしていることがうかがわれた。
「たまたま、かもしれない」
志織は認めたくなかった。
坂下がこの部屋で、サラをもてなし、いつもはしない料理をするなんて。
志織はキッチンを素通りして、洗面台があるところへ向かった。
ここならリップがあるかもしれない。
鏡まわりをみていると、志織のお気に入りのリップが見つかった。
だが、隠すように置いてあった。誰かに見られたくはないように。
志織は周囲を見渡した。
すると、女性もののシャツが置いてあった。
このような服は、志織は着ることはない。
それは、とても値段がはるブランドだからだ。
その白いシャツは、縫製も美しく、生地もなめらかだ。
このシャツを気軽に買えるような、経済力がある女性。
そしてこれをシンプルに着こなせる美しいひと。
志織はその女性が誰だがすぐにわかった。
この部屋に、サラは泊まったのだ。
そして、坂下は甲斐甲斐しく洗濯をして、料理をして、彼女に尽くすのだろう。
「坂下さん、忘れ物見つけました」
「ああ、よかった。どこにあった?」
「洗面台にありました」
坂下はリビングで仕事をしていた。
彼の視線はパソコンを向いている。
志織はそのまま坂下から距離をおいて、あいさつだけした。
自分の表情を見られたくはなかった。
きっとひどい顔をしているだろうから。こんなに醜い感情をもったことがない。
部屋を出ると、また涙が出てくる。
なぜ、この恋愛はこんなに苦しいのだろう。
両思いになっても、苦しい恋。好きというシンプルな感情に従っているだけなのに。
空が薄暗くくもってきた。
コメント