【オフィスのアネモネ】第22話「残されていた服」

オフィスのアネモネ

「あれ、リップがない」

 

志織は、買い物に出かけようとして、メイクをしようと鏡の前に座った。

お気に入りのリップで、気分を上げようとした。
しかし、志織が好きなピンクのリップが見当たらない。

 

「……化粧直しに、コスメポーチに入れていったかも」

 

志織はメイク直しに使っている、持ち運びできるコスメポーチの中身を見てみた。
しかし、いつもはあるリップがやはりなかった。
最近このコスメポーチをいつ使っただろうかと考えた。

 

「あ、坂下さんの家においてきたかもしれない」

 

最近は、会社のあと一緒に帰ることはなくなった。
しかし週末になると、坂下からメッセージがきて、週末の泊まりだけは継続している。

坂下が仕事で忙しく、なかなかふたりきりで話す機会もとれていないので、その時間がとてもうれしい。

さっそく、坂下のメッセージを送ることにした。

 

『おはようございます。坂下さんの部屋に忘れものをしてしまったみたいです。取りにいってもいいですか?』

 

すると、小一時間がたつころに返信があった。

 

『ごめん、ちょっと手が離せなくて。忘れ物?いや、ちょっと部屋は……』

 

いつもだったら、部屋に行くことを了承してくれる坂下が、少し困ったような返答があった。
志織は、また嫌な予感が頭をよぎった。

 

『忙しいですか?また来週にでも大丈夫なので、取りにいっても大丈夫ですか?』

 

志織がメッセージを送ると、今度はすぐに返信がきた。

 

『いや、来週は会えないと思う。ごめんね。忘れ物だったら、俺が探して渡すよ』

 

来週は、会えない――――

 

そんな文言が何度も頭に残る。

帰宅後の食事も今はない状態だ。
そのなか、週末の泊まりだけが、志織と坂下をつなぐ時間である。
それさえなくなってしまうのだろうか。

 

『少しだけなので、お時間とってもらえますか?』

 

志織は、珍しく食い下がらなかった。
悪い想像が何度もよぎる。

今は、坂下の妻が来日している。
つまり、時間が合えば、坂下と妻のサラは会うこともあるだろう。

坂下の部屋は志織が入ることで、生活感を増してきた。
志織が一生懸命に、坂下が居心地よくなるように考えたのだ。
そんな部屋に、他人が入ることが嫌だった。

いや、坂下にとっては戸籍上の家族であるサラは、他人ではないとは思う。
だが、坂下と志織が紡いできた時間が、あっけなく崩れてしまうようで苦しかった。

 

『わかった、来週に時間をとる。また連絡するね』

 

坂下は少し時間があいてから、仕方なくといった様子で部屋に入れることを了承した。
志織は少しだけ安心した。

それから、気分もよくなって、買い物をする足取りも軽かった。

 

*****

 

「お邪魔します」

「ああ、ちょっと汚いけれど。気にしないで」

 

坂下の部屋に入ると、少し違和感を覚えた。
いつもと違うかおりがする。

坂下の部屋は基本的に無臭だ。強いかおりはしない。
だが、今は花のにおいがする。

玄関をみると、すてきなポプリが置いてあった。
ウサギの陶器の置物にはいった、紫色のポプリ。
明らかに海外のお土産といったものだった。

志織は、胸騒ぎがした。

 

「このウサギ、かわいいですね」

「ああ、頂き物で」

 

坂下はにっこりと笑みを浮かべた。そこにはためらいや狼狽の色はなかった。
サラからのお土産ではなかったのだろうか。

 

「忘れ物を探していいですか?」

「じゃあ、俺は仕事をしているから」

 

坂下の姿をみれば、いつもとそれほど変わった様子はなかった。
そうして部屋を見るが、坂下が言うほどではなく、むしろ片付いていた。

ただ、キッチンを使った形跡が色濃く残っていた。
いつもは、坂下は志織がいない限り料理をすることがない。
だが、キッチンにはたくさんの調味料があって、坂下が料理をひんぱんにしていることがうかがわれた。

 

「たまたま、かもしれない」

 

志織は認めたくなかった。
坂下がこの部屋で、サラをもてなし、いつもはしない料理をするなんて。

志織はキッチンを素通りして、洗面台があるところへ向かった。
ここならリップがあるかもしれない。

鏡まわりをみていると、志織のお気に入りのリップが見つかった。
だが、隠すように置いてあった。誰かに見られたくはないように。
志織は周囲を見渡した。
すると、女性もののシャツが置いてあった。

このような服は、志織は着ることはない。
それは、とても値段がはるブランドだからだ。

その白いシャツは、縫製も美しく、生地もなめらかだ。
このシャツを気軽に買えるような、経済力がある女性。
そしてこれをシンプルに着こなせる美しいひと。

志織はその女性が誰だがすぐにわかった。
この部屋に、サラは泊まったのだ。

そして、坂下は甲斐甲斐しく洗濯をして、料理をして、彼女に尽くすのだろう。

 

「坂下さん、忘れ物見つけました」

「ああ、よかった。どこにあった?」

「洗面台にありました」

 

坂下はリビングで仕事をしていた。

彼の視線はパソコンを向いている。
志織はそのまま坂下から距離をおいて、あいさつだけした。
自分の表情を見られたくはなかった。
きっとひどい顔をしているだろうから。こんなに醜い感情をもったことがない。

部屋を出ると、また涙が出てくる。

なぜ、この恋愛はこんなに苦しいのだろう。
両思いになっても、苦しい恋。好きというシンプルな感情に従っているだけなのに。

空が薄暗くくもってきた。

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