【オフィスのアネモネ】第21話「うつろい」

オフィスのアネモネ

心がふわふわする。

志織には不思議な感覚だった。
坂下からはっきりとした答えをもらえないことに、失望を感じたあの夜。
それから志織の心はぼんやりしている。

あの日、坂下を見送らずに、部屋で泣きじゃくった。
でも社会人とは残酷で、朝になったらいつものように仕事に行かなければならない。

会社に来られるだけマシなのだろうか。でも、胸は痛いままだ。

 

「おはようございます」

 

志織はオフィスの山本にあいさつをした。
一瞬、山本は志織の顔を見つめた。
しかし何も言わず、笑顔であいさつを返してくれる。

 

「おはようございます、今日もよろしく」

 

いつも通りの山本の声。
今は痛みなんて見ない振りをして、仕事に没頭しようと決めた。
志織はパソコンをひらいた。

 

「井口さん、この書類を頼める?」

「坂下さん、わかりました」

 

業務がはじまり、たんたんと仕事をこなした。
坂下とはいつものように上司と部下という関係のまま、時間は過ぎる。

ただ、ふと不安になる。仕事が終わったら、どうなるのだろうと。
昼休みに、メッセージをチェックすると坂下からの返信があった。

 

『今日も、いつものところで』

『はい』

 

志織は簡単に返信をした。
この痛みはいつまで続くのだろう。
忘れていた痛みがじくじく広がっていく。

午後になれば、また仕事に没頭できる。

久しぶりに帰宅後が憂鬱になった。

 

*****

 

「井口さん、やっぱり調子が悪い?」

「いえ、そんなことは。疲れているのかな……、今日は早めに寝ます」

暗に今日はまっすぐ帰ると意思表示をした。
でも、彼と会うと心が乱れる。

彼のことを好きな自分をつくづく思い知らされる。坂下は機嫌がよさそうだった。

 

「坂下さん、いいことありました?」

「え?なんで」

「お酒のペースがはやいし、表情も明るくて」

「そうかな?」

 

坂下はあいまいに笑った。

志織の勘が告げた、何かあるのだろうと。
ただ、立ち入って聞くことができなかった。
志織は自宅へは送ってもらわずに、買い物をすると言って小料理屋から別行動で帰宅することにした。

ひどく嫌な気がした。

 

「そわそわ、している気がするけど……」

 

志織は違和感をぬぐいきれなかった。
そのままスーパーに向けて歩いていると、電機屋の前を通った。
大型テレビの映像が視界に入る。

 

『音楽家のSARAの日本公演が決まりました。』

 

アナウンサーの声が聞こえた。志織はがんと頭に衝撃を受けた。まさか信じられない。

 

『来シーズン期待されている映画の主題歌を演奏します。また、コンサートツアーも開催が決まっています』

 

映像にうつるのは、キレイな女性。
確かに志織よりもずっと年上だ。
でも大人の色香がある。
こんな人を美魔女というのだろう。

でも作られたものではなく、不自然なものなどない純粋な美しさが彼女にはある。

志織は立ち尽くした。
テレビに反射して、お店のガラスに自分の姿がうつった。

 

偽物は自分だ――――
サラと比べると自分は偽物だ。
あれほど美しく、凜として、自立した女性。

負けたくない、でも勝てるとも思えない。

 

「でも、坂下さんはサラさんのことは言ってなかったし……」

 

そんなことをつぶやいてみるのも強がりだ。

今日、機嫌がよかった坂下。
そして今みたニュース。
それを照らし合わせれば、自ずと答えは見えたではないか。

坂下の機嫌がよかったのは、きっとサラさんと会うからだ。
女の勘がこういうときは当たるのだ。
でも、彼を信じたい。
もし会ったとしても、彼と彼女は普通の夫婦ではないのだから。

志織はテレビ画面から背を向けた。
坂下にメッセージをしてみたが、返事はくることはなかった。

 

*****

 

「井口さん、しばらく一緒には帰れなさそうなんだ」

「え、どうして……」

「新しい仕事が忙しくて、ごめんね。埋め合わせはするから」

 

自動販売機の前で、二人きりになったときに突然告げられた。
確かに坂下は、また新しい仕事もあって忙しいのはわかっていた。

だが、今まで一緒に帰らないと直接言われたことはなかった。

 

「わかりました、無理しないでくださいね」

 

志織はどうにか笑って答えることができた。
聞き分けのいい子であるのは、いつも得意だ。
志織は争いごとが嫌いだし、声を荒らげるのも好きではない。
大人の付き合いなのだから、上司である彼を困らせるなんてことはできない。

それこそ駄々をこねて嫌だと泣いたら、迷惑をかけてしまう。
わたしは大人なのだから大丈夫。

 

また心がふわふわする――――

 

痛みはある程度のところで感じなくなる。
これ以上何も感じないための、麻酔をうったのかもしれない。

 

「じゃあ、わたしは仕事に戻りますね」

 

これ以上坂下と一緒にいたら、きっと詰め寄ってしまうかもしれない。
泣いてしまうかもしれない。坂下は志織の顔をちゃんと見てはくれなかった。
いや、見てはいるが、志織の心の奥の表情など察しようともしない。
彼は志織の表情とは真逆に、とても機嫌がよかったのだ。

察してほしいなんて、きっとわがままだ。
彼を疑ってしまう自分が苦しい。

疑う気持ちと、信じたい気持ちに頭が痛くなってくる。

無心に仕事をすれば、きっと心の痛みを感じずにすむかもしれない。

志織はキーボードをたたく力をこめた。

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