【オフィスのアネモネ】第13話「食事とメールと不安」

オフィスのアネモネ

「待った?」

「いえ!時間があったので、スーパーで食材を見ていました」

 

待ち合わせは坂下の部屋だった。

初めて抱き合ってから、待ち合わせをする場所がかわった。
今までは駅のホームで待ち合わせをして、坂下のお気に入りの小料理屋へ行って食事をした。

もちろん、小料理屋へは行くこともある。
ただし、待ち合わせは坂下の部屋だった。

 

「暑くなってきたよね、飲み物でも飲んでいてよかったのに」

「でもコップ、どれを使ったらいいか迷って」

「ああ、確かに。今度、井口さんが使う用のカップ買ってこようか」

 

坂下は少し変わった。

深く関わらせてくれなかったのが、今は少しだけ踏み込ませてくれるようになった。

部屋に志織のものを増やしていいということは、この部屋に遊びにきていいという意味だ。
そんな何気ない言葉がうれしい。

 

「そ、そうですね……、おそろいにしてみます?」

「おそろい?ペアマグカップか、そんなの買ったことがないなあ」

 

冗談まじりで志織は聞いてみた。
坂下はおかしそうに笑うだけだ。

年下の戯れ言だと思ったのだろう。
それ以上は言わなかった。

志織も、ここにいるだけで幸せなのだからと無理は言わない。

坂下が既婚である事実を、ここにいると忘れてしまいそうになる。
マンションにはいない奥さん、彼と妻の関係が特殊すぎるのだ。

 

「ん、あれ……メール」

 

だが、坂下と一緒に時間を過ごすうちに気がついたこともある。
そう、彼は夜中にメールをチェックして、必ず返す。

二人きりでどんなに甘い語らいをしようが、彼の優先はメールだった。
メールの相手が誰かなんて、志織にはすぐわかった。

坂下の妻、SARAからのメッセージは定期的に届くようだった。

 

そのメールは、彼のすべての最優先事項だ。

ふだんは冷静さがあって、大人な雰囲気の坂下。
だが、メールを開いた瞬間にこどものようになる。

好きで好きでたまらない人からのメッセージ、恋をしている少年のようになる。

 

「坂下さん、ご飯できましたよ」

 

志織は現実に戻ってもらいたかった。
志織のできることは、おいしい食事を作って、自分に振り向いてもらうことだ。

そして夕飯を食べてから、シャワーを浴びて、抱き合う。
まるで夫婦のように、何気ない時間を重ねる日々が多くなる。

半同棲の年の離れたカップルだ。

きっと志織と坂下を何も知らない人が見たら、夫婦に見えるかもしれない。

 

「奥さん、なんて言ってきたんですか?」

 

抱き合ったあと、すねたように志織は坂下に聞いた。
坂下はスマートフォンを眺めている。

志織はいじわるをして、スマートフォンを取り上げようとした。

 

「こらこら。サラは特になにも、ご飯は食べているかって」

「お母さんみたいじゃないですか」

「そうなんだ、母親みたい。俺の方がずっと生活のことはしっかりしているのにね」

「確かに坂下さんの部屋はきれいかもしれないですけれど、食事は心配ですよ。ちゃんと食べているかって」

「昔は自分で自炊もしたのだが、もうめんどうになってきたんだ。外で食べた方が、バランスのいい食事が食べられるし、経済的で」

「確かにそうですけれど、坂下さんは稼いでいるから」

「井口さんは、しっかり働いているのに食事も作って尊敬するよ」

「簡単なものだけですよ。スーパーのできあいのものをちょっとアレンジして。でも、全部はできないですね。やっぱり仕事が忙しいと疲れちゃって」

「でも、こうやって夕食作ってくれて助かっているよ」

「ふたりでゆっくり過ごしたいから、部屋で食べた方がいいかなって思っただけです」

 

志織はうれしかった。
勝手に部屋で食事を作るなんて嫌がられるかと思った。

だが最初は驚いていたが、今は坂下も手伝ってくれることもある。
仕事を持ち帰りリビングでパソコンをひらいているときもあって、それを見ながら志織が夕食の準備をする。

 

「明日は、何か食べたいものありますか?」

「うーん、肉じゃが……かな」

「坂下さんって、素朴なものが好きですよね」

「安心するっていうのかな、洋食も好きだけれど和食が落ち着く」

「サラさんは作ってくれたのですか?」

 

こうやって話しをしていると、サラのことを聞くことも増えてきた。
彼のことを知るには、サラのことを知ることが一番だ。

志織は見えない妻の存在が、知りたくもあった。

自分の好きなひとは、どんなひとが好きなのか。
知らないでいるよりも、知っているほうが怖くないと思ったのだ。

 

「サラは、あまり食事が得意ではなかったかな。だから俺が料理を作って、彼女に食べさせていたことも多くて」

「坂下さんってやっぱり料理が上手ですよね。手際がすごくよかったから」

「まあ、ひととおりはね。親が亡くなってサラに引き取ってもらってからは、早く自立したかったのもあるよ。何でも自分でやるようにした。はやく大人になれば、何か変わるかと思ったんだろうね。若かったよ」

 

サラのことを語る坂下は、いつも寂しさをかかえている。

そんなときに一緒に寂しさを共有できるのは、自分だと強く思う。
一人で寂しい坂下をいやしてあげられるのは、自分なのだと言い聞かせる。

いつか坂下が自分を見てくれると、わずかな希望をもちたかった。

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