第1話「自動販売機のまえで」
「好き」
そう言われてキスをした。上司である坂下と、会社以外でこんなに長い時間会ったのは今夜が始めてだ。誘われるまま、部屋に行って、一夜を過ごした。朝になって、あいさつがわりにキスをされる。今までの恋愛と同じ。好きな人ができて、キスをする。
「わたしも、ずっと気になっていました」
***
彼の名前は、坂下大紀(サカシタ ダイキ)年齢は三十五歳。自分よりも一回り以上も年上だ。でもそんなこと気にならなかった。彼の話しは面白く、仕事もできる。
志織は今年女子大を卒業して、就職した。上場企業であり、歴史のある商社に一般職として採用された。仕事は思ったより大変だった。周囲の人にできる人が多かったのだ。
志織はいわゆるコネ入社であった。大学のゼミは、毎年この企業に入る人がいる。歴代の先輩とのつながりがあったからこそ、入社することができた。何もない普通の女子大生だったら、こんな企業に入ることすらかなわなかった。だから、一般職であってもまわりは優秀なひとばかりであった。
「井口さん!また書類のミス、何度言ったらわかるの?」
「すみません」
「こっちだって抱えている仕事があるの、手間をとらせないで」
入社して数カ月、志織は先輩に目をつけられていた。直接の指導係の先輩だ。仕事ができるとは思うが、きつい言い方をする女性だ。新人にはまともに仕事を教えてもらえない。これ見よがしに、大声で指摘をされる。こんなのパワハラだ!と声を出したくなる。でも、きっと声をあげても意味がない。こんなことはこの仕事場では珍しくなかった。
「はあ……」
書類をもってデスクへ戻った。まわりもかばってくれることはない。仕事ができないことがわかっているから、いくらきつくて理不尽なことを言われても黙っているしかないと思った。
志織はデスクから離れて、コーヒーを買いに行こうと思った。そこでぼんやり自動販売機の前に立っていたら、涙が出てきた。怒られるのはつらくない。でも毎日、毎日、同じことで怒られていくとさすがに落ち込んでくる。仕事ができるようにはなりたい。でも誰に相談すればいいのだろう。コーヒーのカップをとれと、自動販売機のブザーがなる。でも手に力が入らなかった。
「あれ、井口さんだよね。飲み物とらないの?」
そのときに声をかけてくれたのが、坂下だった。志織の指導係は五歳上の女性だったが、坂下は課をまとめる責任者だ。
「坂下さん……、すみません」
仕事を始めて、謝り癖がついてしまった。何をやるにも萎縮してしまう気がして、すぐに謝ってしまう。あわててコーヒーをとった。そして自動販売機から離れようとした。
「井口さん会社はどう?仕事は大変でしょう?俺も最初は大変だったなあ、ずっと前のことだけどね」
「え……?」
「指導係のひと、怖いでしょう?人が足りないのは事実で、ていねいには仕事を教えている時間はないのが現状で。申し訳ない。実は指導係をしている彼女も、入社したてのころは、同じように怒られていたよ。こうやって、コーヒーのみながら泣いていた」
「わたし、泣いては……」
慌てて涙を指でぬぐおうとする。指はぬれていた。上司の前で泣いてしまうなんて恥ずかしい。
「最初は誰もが完璧にできるわけではないから。せっかく入社したんだから、がんばってほしいな。まあ、たまにコーヒーをここで飲んでいるから。愚痴ってくれてもかまわないし」
「坂下さん、ありがとうございます。自分が情けなくて、仕事辞めたくはないです」
「そう、その意気だ」
坂下の印象は、一般的な上司といったところだった。背も高く、仕事もできる。物腰も柔らかい。女性社員に一定の評価があった。志織の働いているフロアは女性が多いので、そんな彼女たちをまとめるのに適した人柄なのだろう。
それから、志織は自動販売機の前に行くようになった。志織の姿を見ているのか、数度に一度坂下は相談に乗ってくれる。よく話しを聞いてくれ、仕事も教えてくれる。志織によって、会社でできた初めての味方のような気がした。
「坂下さんの言われたとおり、少しずつまわりを見るようにしたらできることが多くなってきました」
「それはよかった」
「はい、電話をとることくらいしか完璧にできないですが。それでも慣れてくると、スムーズに応対できるようになって。最初は緊張して、頭が真っ白になってしまったんです」
「誰だって最初はそうさ」
「同期の人もできる人が多くて、わたしだけダメなのかなって思ってしまっていたんです」
「いや、そんなことはないよ」
根気強く話しを聞いてくれ、頼りになる上司。志織は今まで、こんな年の離れた人と親密に話したことがなかった。小・中・高一貫の私立女子校だった。大学も付属の大学で、身の回りの年上の異性といえば、親と教師くらいだ。
彼氏もできたことがあっても、それは同級生。今思えば、子どものようなけんかばかりしていたかもしれない。彼氏も自分と同じ年齢だから、甘えていた部分もあった。大学を卒業する前に、自然消滅してしまった彼氏と坂下と比べてしまっている自分に気がついてしまった。
少し気になる人が志織にはできた。
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