著者:黒井千次 2010年3月に新潮社から出版
高く手を振る日の主要登場人物
嶺村浩平(みねむらこうへい)
主人公。地方支社を転々とした末に退職。片付けなければならないことを後回しにしてきた。
瀬戸重子(せとしげこ)
浩平とはゼミの同期。商社マンの夫に先立たれた後も稲垣姓を使う。友人の出版社を手伝ったりネットを使いこなしたりとアクティブ。
嶺村芳枝(みねむらよしえ)
浩平の妻で故人。生前は子育てと家事に追われていた。
希美(のぞみ)
浩平の娘。離れて暮らす父の健康を気遣う。
雅夫(まさお)
希美の夫。仕事に熱心で職場での人間関係も良好。
高く手を振る日 の簡単なあらすじ
終活を始めた嶺村浩平は昔の古い写真を発見したことがきっかけで、ゼミで一緒だった瀬戸重子と連絡を取り始めます。
体調も良くなりおしゃれにも気を遣うようになった浩平でしたが、重子の方は息子夫婦の都合からこれまで通りのお付き合いを続けることは不可能です。
都内から長野の山奥の施設に入居することを決めた重子を、浩平は昔のように見送るのでした。
高く手を振る日 の起承転結
【起】高く手を振る日 のあらすじ①
嶺村浩平が自らの人生に行き止まりを感じだしたのは、妻の芳枝との死別を経験して70歳をこえたあたりからです。
衣類や靴、歯ブラシなどの処分は娘の希美に委せるとして、小型トランクの中に入っているものだけはどうしても見られたくありません。
受験勉強の時に使っていたノート、学生の頃に記した日記帳、社会人になって同僚と撮ったスナップ、結婚前に芳枝からもらった手紙… その中にサイズ感も絵柄も明らかに他とは異なり、スタジオで撮影されたかと思われる瀬戸重子のポートレートが出てきます。
彼女とは大学のゼミの中で親しくしていて、一緒に帰ることになったのは雪が降りしきるある日の午後のこと。
表通りを離れてお寺の境内を抜ける経路を選んだのは、その方が静かで近道だったためで特別な意図はありません。
突如として重子がよろけて倒れかかってきたのは、積雪によって通路の石が見えにくくなっていたためでしょう。
ふたりは顔が近づいた瞬間にくちびるを重ねていて、そのまま裏門から人混みへと出て軽く手を振って別れました。
先に重子が商社に勤める男性と結婚、数年後に浩平が芳枝と家庭を持ったために自然と疎遠になっていきます。
【承】高く手を振る日 のあらすじ②
希美が様子を見に来るのは週に1度ほど、冷蔵庫の中身を整理したり水回りをチェックするためです。
彼女の夫・雅夫が稲垣という同僚の家に招かれたのが2〜3日ほど前、あいさつに顔を出したのはとても上品な母親、浩平と同じ大学を出ていて芳枝の名前も知っているとのこと。
ピンときた浩平が学部別の同窓会名簿を引っ張り出してみると、「稲垣重子」と記載されていました。
その違和感のある姓名の下には(旧姓・瀬戸)と小さく括られていて、こちらは何とも懐かしい響きあります。
希美の話では向こうも浩平のことを覚えているそうで、文通が始まるのにそれほど時間はかかりません。
重子のおかげで例の行き止まり感に小さな穴を空けてくれたようで、凝り固まっていた体は伸びやかになり食欲も湧いてきました。
ゆっくりお茶が飲みたいという誘いを受けた途端に、長らく着たことがなかったスーツにネクタイを締めて出掛けます。
ホテルのガーデンラウンジで会うはずが待ち合わせに手間取ってしまい、重子の話ではこんな時に携帯電話があると便利だそうです。
【転】高く手を振る日 のあらすじ③
夕方の買い物のために家を出たつもりでしたが、浩平の足は自然と電車の駅に近い家電量販店へ向かいました。
操作方法をマスターするまでがとにかく大変そうでしてたが、重子の居る場所に近づく手立ては他に思い付きません。
新しいものが嫌いだったはずの父の心境の変化を美穂は喜んでいて、やっかいな手続きや書類の準備は引き受けてくれます。
教えてもらっていた番号を口で唱えながら慎重にボタンを押すと、受話器越しに聞こえてくるのは重子の声。
かすれているのは先日にこじらせて救急車を呼ぶ騒ぎにまでなったという、風邪がまだ十分には治っていないのでしょう。
この日はふたりにとって「ホットラインの開通」となり、お互いの距離をぐっと引き寄せたような充実感です。
アドレスの設定までには何とかたどり着いた浩平でしたが、メールの打ち方だけはいつまでたっても要領がつかめません。
おあいしたい、げんきになったじげこさんに、はやくあいたい… 漢字に変換しようとしても混乱するために、文面の全部を平仮名のままで送信します。
【結】高く手を振る日 のあらすじ④
声のないメールは言いにくいことを伝えたり、別の意味を含ませたりするのに便利でした。
一方では肉声が聞こえないのが物足りない浩平は、日本橋にある小さなお店で遅めの昼食をとる約束を取り付けます。
個室のテーブルの前に黒ずんだ色調の和服姿で座っている重子は、何やら改まった様子です。
海外勤務が決まった息子たちがロンドンに行くことになり、少なくとも3年ほどは帰国できません。
横浜に在住の妹のところに身を寄せるのか、思いきって有料の高齢者向け施設を探すのがいいのか。
今のままでどこにも行かないでくれることが浩平にとっては1番でしたが、他家のことでもあり家族との関係も絡んでくるために口を挟むのはためらわれます。
重子が選んだのは八ヶ岳山麓にある老人ホーム、近くの病院と契約を結んでいるために急の場合でも心配はいりません。
自宅まで送ろうかと申し出た浩平、最寄り駅まででいいので50年前の雪の日のように手を振ってほしいという重子。
夕暮れ時の改札口の前で足を止めた浩平は、右手を高々と上げていつまでも左右に揺すぶり続けるのでした。
高く手を振る日 を読んだ読書感想
「先が見えない」とは主人公の嶺村浩平がしばしば口にするフレーズですが、リタイアして悠々自適の日々を送る世代の方であれば理解できるのでしょうか。
若気の至りともいうべき1枚のセピア色の写真は、そんな浩平を過去へと導くチケットのようです。
お互いにパートナーを失った70代の男女のあいだに、ロマンスが再燃するのかとハラハラしてしまいます。
いつまでも純情で少年のような心を持ち合わせている浩平、いくつになっても美しさを保ち続ける瀬戸重子。
ふたりの純愛をもう少しだけ見守ってあげたくなるような、終盤の駅のシーンが胸に焼き付きました。
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