著者:松波太郎 2016年2月に文藝春秋から出版
ホモサピエンスの瞬間の主要登場人物
わたし(わたし)
物語の語り手。マッサージクリニックを経営。機能訓練指導員として養護老人ホームも回っている。患者の個人的な事情に深入りしがち。
五十山田(いかいだ)
高齢のため難聴だが頭はしっかりとしている。戦時中は一等兵として中国に出兵した。
林(はやし)
介護施設の常勤職員。東洋医学を軽視している。
中尉(ちゅうい)
五十山田の上官。規律に厳しいが本来は人格者。
ホモサピエンスの瞬間 の簡単なあらすじ
介護施設で「わたし」がマッサージを担当しているのは、五十山田というひどい肩凝りに悩まされている患者です。
少しずつ心を開いてきた五十山田は、日中戦争で敵兵ではなく一般市民を殺害してしまったことを治療の最中に打ち明けます。
過去の罪を告白した五十山田は間もなく脳梗塞を再発して後遺症が残り、施設を去っていくのでした。
ホモサピエンスの瞬間 の起承転結
【起】ホモサピエンスの瞬間 のあらすじ①
治療院を経営しているわたしは、金曜日になるとバスと電車を乗り継いで高齢者向けのグループホームへと向かいます。
この日は初診の患者さんでカルテには「五十山田」と記名されていて、年齢はわたしよりも50歳は年上でしょう。
体幹から末端にかけて凝りを解していくあん摩、末端から体幹に戻りながらもんでいくマッサージ、指に体重をのせて圧していく指圧。
状況に応じて3種類の手技を丁寧に使い分けていき、問診を交えながらコミュニケーションを取るのがわたしのポリシーです。
肩凝りがひどいのではないかとわたしが訪ねた途端に、五十山田はむっつりと黙り込んで答えてくれません。
その日は悟り潔く謝って黙々と施術を続けることにしましたが、次回から五十山田は少しずつ朗らかな表情を見せるようになっていました。
ケアマネージャーの林の話によるとわたしが来る金曜日を楽しみにもしてくれているそうで、「先生」と呼び掛けてくれます。
「肩凝り」がNGワードである理由を語ってくれたのは、16回目のマッサージをしていた時のことです。
【承】ホモサピエンスの瞬間 のあらすじ②
1937年の夏の始まり、さくらんぼが名産の県で暮らしていた五十山田は中国の北部戦線へと駆り出されていました。
南方の島々よりかは比較的に戦況が安定していましたが、夜になると真夏でも気温が零下まで下がるほどの過酷な環境です。
敵軍の来襲に備えて延々と演習が行いつつ、橋を挟んで向こう岸とのにらみ合いが続いています。
不眠状態が長期間にわたって続いて体が重くなっていたために、直属の中尉に休ませてほしいと申し出ましたが許されるはずはありません。
肩凝りも深刻だった五十山田は軍隊内では鉄則となっている敬礼もままならないために、すぐに中尉の拳が飛んできます。
精神的に追いつめられていた五十山田が最も恐れていることは、自分が人間ではなく3大欲求そのままに行動するホモサピエンスになってしまうことです。
高齢者の場合は日によって話の内容があちこちに飛んでしまうことが多いですが、五十山田は確かな記憶を頼りに話を続けていきます。
【転】ホモサピエンスの瞬間 のあらすじ③
橋を渡った五十山田たちの隊に対して、現地の住民の中には片言の日本語であいさつしてくる者もいて思いのほか好意的です。
集落の代表者とのやり取りを終えてひとまず落ち着いたところ、突如として何者かが叫び声を上げながら後方から近づいてきますが五十山田は肩凝りで首を動かすことができません。
女の子が父親に呼び掛ける「ババ」というこの地方の言葉には独特なイントネーションがあり、気が張り詰めていた五十山田には銃声のように聞こえました。
その瞬間にホモサピエンスに還った五十山田は見知らぬ少女を投げ落として、父親が駆け寄ってくる前に銃剣で刺殺してしまいます。
大陸で終戦を向かえた五十山田はしばらくの間は抑留されていましたが、特に罰を受けることもなく戦友たちと帰ってこれたそうです。
すべてを語り終わった五十山田は今度はわたしのところまで出向いて治療を受けたいと申し出ますが、林からは施設の利用者を個人のクリニックに引っ張り込まないように注意されていました。
保険適用外の自由診療のために初診料を含めて4500円ほどかかり、この施設の利用料だけで手一杯であろう五十山田が払えるとは思えません。
【結】ホモサピエンスの瞬間 のあらすじ④
48回目のマッサージを終えた6日後のこと、わたしの治療院に五十山田が意識を失って倒れたという一報が飛び込んできます。
以前にも何回か脳梗塞を起こしていましたが、今回のは症状が相当に深刻なようで市立の病院に搬送されたようです。
わたしが「肩凝り」を思い出させてしまってから1週間ほどのあいだに、五十山田の周囲にはふたつの変化がありました。
ひとつはラジオを聞きながら四六時中何か考え事をしていたこと、もうひとつは義理の弟を名乗る男性が面会しにきたこと。
林の話によれば体のマヒや拘縮など重度の後遺症が残ったために、別の施設に移さなければなりません。
電話を通してわたしが泣いていることに気がついた林は、利用者の過去には必要以上に踏み込まないようにアドバイスをしてきます。
一方的に子機を置いて会話を切り上げたわたしが治療用のベッドに横たわっていると、どこからともなく銃声のような「ババ」という音が聞こえてくるのでした。
ホモサピエンスの瞬間 を読んだ読書感想
生活のためにあちこちの施設を掛け持ちしてアルバイトをしているなど、指圧師の切実な事情が取り上げられていました。
体中の疲れや凝りを癒やすためのマッサージから、封印したはずの忌まわしい記憶を取り戻していく展開が皮肉です。
老人の意識が遠い過去へと飛んでいくかのように、異国の戦地での過酷な風景が映し出されていて幻想的でした。
味方の陣地と相手側とを連結するのが橋ならば、人間の理性をコントロールする頭と本能が宿る胴体をつなぐ首も橋なのかもしれません。
戦争という極限状況下においていてはいかなる人間であろうとも、獣のように急変してしまうことを痛感します。
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