著者:小砂川チト 2022年7月に講談社から出版
家庭用安心坑夫の主要登場人物
藤田小波(ふじたさなみ)
秋田県出身の、ほぼ専業主婦。お買い物代行のアルバイトをしている。
夫(おっと)
小波の夫。作中に名前は出てこない。
尾去沢ツトム(おさりざわつとむ)
秋田の廃鉱山を転用したテーマパークに置かれたマネキン人形。小波の父親とされる人。
母(はは)
小波の母親。作中に名前は出てこない。
多賀(たが)
〈大崎山〉と呼ばれる一帯の現場監督。四十歳かそこいら。
家庭用安心坑夫 の簡単なあらすじ
藤田小波は、日本橋三越の柱に、自分が実家に貼った、けろけろけろっぴのシールが貼ってあるのを見つけます。
それからまもなく、実家の近くのテーマパークに置いてあるはずの人形・尾去沢ツトムが現れます。
その人形は、亡き母が、幼かった小波に、「あれがあなたのお父さん」と教えたものでした。
やがて小波は、秋田へ里帰りすることを決めます……。
家庭用安心坑夫 の起承転結
【起】家庭用安心坑夫 のあらすじ①
ある日、藤田小波は、日本橋三越の大理石の柱の上に、けろけろけろっぴのシールが貼ってあるのを見つけました。
それは秋田にある小波の実家に貼ってあるはずのシールでした。
小波のものである証拠に、シールには彼女の落書きが残っているのです。
小波は店から逃げ出しました。
小波はいま、夫と団地で暮らしています。
夫はテレワークで家にいます。
小波は月に二度ほど、お買い物代行のアルバイトをして、小銭を稼いでいます。
まわりの部屋からの騒音に悩まされながら、テレビを見ていると、渋谷のスクランブル交差点からの中継映像に、尾去沢ツトムが映っているのを発見しました。
ツトムは、秋田の廃鉱山を利用したテーマパークで使われていた、マネキン人形の一体です。
亡くなった母は、「あれがあなたのお父さん」と説明したものです。
そのツトムが、なぜ東京へ? 疑問に思った二日後、小波は自衛隊の大規模接種センターを訪れました。
接種を終えて外に出ると、案内係にまじって、またもやツトムが立っているのです。
気分の悪くなった小波は、すぐに帰宅しました。
母のことを思いだします。
ツトムが父だと言ったり、燃えるような絵ばかり描いたりと、ずい分とおかしな人でした。
【承】家庭用安心坑夫 のあらすじ②
かつて、尾去沢鉱山が稼働していた時代、尾去沢ツトムに相当する坑夫はいました。
ある日、ツトムはいつものように鉱山の仕事のために坑道へ入っていきました。
二度と戻れない、とは夢にも思わずに入っていったのです。
さて、小波はお買い物代行のために、倉庫のような店舗に来ていました。
彼女は、店舗のそこかしこでツトムを見かけました。
通路にあった鏡で、みずぼらしい自分の姿を見た小波は、ツトムの姿が、自分を過去に引き戻そうとしている、と感じました。
過去のつらい時代には、未来に希望を持っていたのに、いざその未来になってみれば、自分の姿はこのザマです。
小波はひどく腹が立って、ツトムに「なによ」と冷たくあたるのでした。
しかし、時間がたって落ちつくと、父であるツトムに謝罪しなければいけない気になりました。
夫に、謝罪のために故郷の秋田に行きたい、と申し出ます。
夫はひどく怒りました。
「父親は、本当の家族に見捨てられたら、体よくお前の家に転がりこんで、介護させたじゃないか。
それが二年前にやっと終わったのに、なにを蒸しかえすのか」と言います。
それでも秋田へ帰ろうとする小波は、防災点検が来たときを利用して、急いで荷造りして、家を飛びだしたのでした。
【転】家庭用安心坑夫 のあらすじ③
久しぶりに帰った実家は、誰も住んでいないために荒んで、家の死骸のようでした。
小波は、けろけろけろっぴのシールがここに貼ってあるか確認しようと、裏手の狭い隙間に入ります。
窓からなかを覗くと、洋服箪笥の前に、大柄な人が背を向けていました。
ふり向いたその人は、自分でした。
小波は気を失いました。
意識を取りもどしたのは、未明のことです。
家のなかを覗くと、洋服箪笥に、けろけろけろっぴのシールがちゃんと貼ってありました。
小波はレンタカーを借りて、廃鉱山を利用したテーマパークのマインランドへ向かいました。
朝一番で切符を買って、なかに入ります。
坑内事務所まで行くと、子供の頃に見たマネキン人形たちが、そのままのポーズでいました。
「ひさしぶり!」と声をかけます。
やがて、坑道の中央へ行くと、ツトムの人形がありました。
そばに花束が置かれ、ツトムには水がかけられています。
まるでお墓参りです。
だれがやったのか、と犯人を捜して小波は引きかえします。
食堂に入ると、そこにいたのは貧しげな母子の三人組でした。
その夜、小波は宿泊する場所に困って、自宅に行きました。
鍵をこわしてなかに入ります。
なかには介護のベッドがありましたが、誰のためのものなのか、彼女は思いだすことができないのでした。
小波は、昼間、食堂で見た母子たちのことを思いだして、悟ります、ツトムに新しい家族ができたのだ、と。
ツトムが東京へ出てきたのは、長女である小波に、そのことを伝えるためだったのです。
【結】家庭用安心坑夫 のあらすじ④
その日、坑内で、ツトムの相棒が発破を失敗し、大きな落盤が起こりました。
ツトムは左目を失い、閉じこめられてしまいました。
ベテランの現場監督は瀕死の状態で、もはや自分たちが助からないことを知っています。
あきらめたツトムの目に、幼い頃の自分と母の姿が、幻影となって浮かんでくるのでした。
一方、小波は、ツトム人形を盗みだすことを決意します。
他人のものになってしまったツトムを、もう一度、自分のものにするのです。
もしも途中で犯行を見つかってしまい、入手できないときは、誰のものにもならないように、ツトムを燃やすつもりです。
マインランドに入った小波は、事務所から人形を一体持ちだしました。
それをツトムの相棒と入れ替え、相棒をツトムと入れ替えることで、なんとかツトムを持ちだすことに成功しました。
ところが、実家につれてきたツトムは、もはや不気味な存在にしか感じられませんでした。
翌日、ツトム人形を実家に放置して、小波は東京へ向かいます。
「そうか、自分はこうして『父』をあの家に置きざりにしたかったのだ」と悟ります。
当時は、哀れさを取りつくろう父を、小波は捨てられなかったのです。
東京の団地に戻った小波は、夫の顔を思いだせなくなっていました。
ドアをあけると、まるで引っ越したあとのようにガランとしています。
ツトムを置きざりにしたせいで、自分もこの団地に置きざりにされたのだ、と小波は思うのでした。
家庭用安心坑夫 を読んだ読書感想
第65回群像新人文学賞を受賞し、第167回芥川賞の候補になった作品です。
読んでみると、とても不思議なお話でした。
日本橋三越の柱に、主人公が実家に貼っておいたはずのシールが貼られている、という始まりからして、もう謎です。
しかも、それはあとで、やはり実家に貼られたままになっていたことがわかります。
さらには、ヘンテコな人形が現れて、それが主人公の父親だというのです。
そんなヘンテコで、わけのわからないお話ではあるのですが、なぜか、なんとなく納得するのです。
それは、一つ一つの場面での、主人公の気持ちというのが、とても納得いくように描写されているためではないでしょうか。
「なんのこっちゃ?」と首をひねりつつも、楽しく読んで、読み終わったらもう一度「なんのこっちゃ?」と首をひねる。
それが意外にこの作品の正しい読みかたかもしれない、などと思うのでした。
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