坂下が不機嫌な状態は、数日続いていた。
志織は、なぜ坂下が不機嫌なのかよくわからなかった。
「井口さん!」
「山本くん、仕事終わったの?」
「今日はこれから取引先と食事会なので。早めに終わらせました」
「お疲れさま」
「そういえば、井口さん。この前のメッセージみてくれました?」
山本から仕事のメッセージで返信していないものがあっただろうか。志織は少し考えた。山本はぷっと吹き出したように笑った。
「忘れています?あれ、映画の……」
「映画……映画の仕事なんて、あっ!」
志織はすっかり山本に映画に誘われていたことを忘れていた。
確かメッセージをくれたのは先週のことだ。
週末は坂下とずっと過ごしていたし、彼が不機嫌なことに悩んでしまい、返信をすること忘れていた。
「ごめんなさい、ちょっと忙しかったから」
「いいですよ、そんな真面目な感じのお誘いじゃないですから」
山本は困ったように笑ったが、それほど気にしていない様子だった。
山本は軽薄そうな感じがした当初は、デートに誘うのは下心しかないのかと思っていた。
だが、気軽に雑談をしていると、話しやすいと思うようになった。
山本は、女兄弟が多いらしく、女子が好きそうな話題を自然と身につけてしまっていることを知った。
山本の実家の話など、何気ない会話を会社の自動販売機にしていると、気持ちが晴れることが多かった。
坂下と恋愛をしてから、志織は彼に思われたいという気持ちが強すぎて、いつも悩みがつきなかった。
そんなときに、ほっとできる瞬間が山本との時間であった。
坂下と一緒にいると、身を焦がされるような、熱い思いが全身を走る。
愛されていると感じると、胸が震えるように歓喜する自分を感じる。
だだ、山本との時間は日だまりのような時間だ。変化もなく恋に振り回されることもない。
恋愛感情とは違う、何か優しい気持ち。
親愛の気持ちかもしれない。
「で、映画の件はどうですか?」
「うーん、週末は約束があるから。ちょっと待ってもらっていいかな?」
「急ぎではないので。それまでにおいしいケーキが食べられるところ探しておきます」
「それは楽しみ!よろしくお願いします」
顔を見合わせて笑い合うと、また志織は仕事をするためにデスクに戻ることになった。
*****
「井口さん、今週の週末は空いているの?」
「え、週末ですか?はい、予定はいまのところないと思います」
帰り際に坂下が志織に予定を聞いてきた。
もしかしてデートだろうかと志織はうれしくなる。
最近は部屋の中でのデートが多かったから、たまには外でデートをしたい。
「山本くんが、井口さんと映画に行きたいっていっていたから。行くのかなって」
「山本くんが?」
「井口さん恋愛映画が好きなんだって?」
「そうですね、映画は好きです」
「行かないの?」
志織は何を言われたかわからなかった。
坂下の表情がよくわからない。
いくら坂下が既婚者といえども、志織は坂下と付き合っていると思っていた。
それが世間では不倫と言われていても、志織は心から坂下を愛していると宣言してもいい。
だが、坂下は違ったのだろうか。
ほかの男とデートをしないの?言うなんて。
「それってどういう意味ですか?」
「意味はないけれど、たまには俺以外の人との付き合いも大切なのかと思って」
「坂下さんは、そうしてほしいのですか?」
「井口さんの時間を、俺ばかりが独占してしまってね。よく考えたら、井口さんの貴重な時間を、俺なんかのために浪費させているなんて……いいのだろうかって思ったんだ」
「坂下さん、俺なんかって言わないでください」
「でも、山本くんと井口さんはお似合いだと思う」
「それって、わたしのこと……好きじゃなくなったということですか?」
志織は顔が強ばりそうになる。
不機嫌だったのは、まさか志織のことが嫌いになったからだったのだろうか。
こんなに傍にいて、相手の気持ちに気がつかなかったなんて自分はなんて愚かだ
「違う、そういうわけではなくて……」
「だったら、なぜ……?止めてくれないんですか?」
坂下ははっと志織をみた。志織は涙で視界がにじむ。もう泣き出してしまいそうだ。
「俺には、井口さんを止める権利がないから……」
「だったら、約束をください。これからも一緒にいるって約束だけで、わたしはあなたを信じられるから……」
「うん、わかっている。だからもう少し待ってほしい」
「わたしもわがまま言ってすみません……、今日はここまででいいですから」
志織は坂下の返答を待つことなく、足早にアパートに向かった。
そして後ろを振り返ることなく、ドアをあけて部屋の中に入ってしまった。
なんで、好きなだけなのにこんなに苦しいのだろう――――
志織はそのまま玄関で崩れ落ちるように、膝を折った。
涙が止まらない。
結局、大切な一言を坂下はくれない。
離婚のことだって、確かな進展があるわけではない。
ただ、相手が海外にいるから仕方ないことなのだと言い聞かせてきた。
いつになったら、こんな苦しい気持ちから解放されるのだろうか。
志織は子どものように泣きじゃくるしかなかった。
泣いて、泣いて、声がかすれてしまうまで。
次の日、メイクで目のはれを隠すのが大変だった。
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