「待った?」
「いえ!時間があったので、スーパーで食材を見ていました」
待ち合わせは坂下の部屋だった。
初めて抱き合ってから、待ち合わせをする場所がかわった。
今までは駅のホームで待ち合わせをして、坂下のお気に入りの小料理屋へ行って食事をした。
もちろん、小料理屋へは行くこともある。
ただし、待ち合わせは坂下の部屋だった。
「暑くなってきたよね、飲み物でも飲んでいてよかったのに」
「でもコップ、どれを使ったらいいか迷って」
「ああ、確かに。今度、井口さんが使う用のカップ買ってこようか」
坂下は少し変わった。
深く関わらせてくれなかったのが、今は少しだけ踏み込ませてくれるようになった。
部屋に志織のものを増やしていいということは、この部屋に遊びにきていいという意味だ。
そんな何気ない言葉がうれしい。
「そ、そうですね……、おそろいにしてみます?」
「おそろい?ペアマグカップか、そんなの買ったことがないなあ」
冗談まじりで志織は聞いてみた。
坂下はおかしそうに笑うだけだ。
年下の戯れ言だと思ったのだろう。
それ以上は言わなかった。
志織も、ここにいるだけで幸せなのだからと無理は言わない。
坂下が既婚である事実を、ここにいると忘れてしまいそうになる。
マンションにはいない奥さん、彼と妻の関係が特殊すぎるのだ。
「ん、あれ……メール」
だが、坂下と一緒に時間を過ごすうちに気がついたこともある。
そう、彼は夜中にメールをチェックして、必ず返す。
二人きりでどんなに甘い語らいをしようが、彼の優先はメールだった。
メールの相手が誰かなんて、志織にはすぐわかった。
坂下の妻、SARAからのメッセージは定期的に届くようだった。
そのメールは、彼のすべての最優先事項だ。
ふだんは冷静さがあって、大人な雰囲気の坂下。
だが、メールを開いた瞬間にこどものようになる。
好きで好きでたまらない人からのメッセージ、恋をしている少年のようになる。
「坂下さん、ご飯できましたよ」
志織は現実に戻ってもらいたかった。
志織のできることは、おいしい食事を作って、自分に振り向いてもらうことだ。
そして夕飯を食べてから、シャワーを浴びて、抱き合う。
まるで夫婦のように、何気ない時間を重ねる日々が多くなる。
半同棲の年の離れたカップルだ。
きっと志織と坂下を何も知らない人が見たら、夫婦に見えるかもしれない。
「奥さん、なんて言ってきたんですか?」
抱き合ったあと、すねたように志織は坂下に聞いた。
坂下はスマートフォンを眺めている。
志織はいじわるをして、スマートフォンを取り上げようとした。
「こらこら。サラは特になにも、ご飯は食べているかって」
「お母さんみたいじゃないですか」
「そうなんだ、母親みたい。俺の方がずっと生活のことはしっかりしているのにね」
「確かに坂下さんの部屋はきれいかもしれないですけれど、食事は心配ですよ。ちゃんと食べているかって」
「昔は自分で自炊もしたのだが、もうめんどうになってきたんだ。外で食べた方が、バランスのいい食事が食べられるし、経済的で」
「確かにそうですけれど、坂下さんは稼いでいるから」
「井口さんは、しっかり働いているのに食事も作って尊敬するよ」
「簡単なものだけですよ。スーパーのできあいのものをちょっとアレンジして。でも、全部はできないですね。やっぱり仕事が忙しいと疲れちゃって」
「でも、こうやって夕食作ってくれて助かっているよ」
「ふたりでゆっくり過ごしたいから、部屋で食べた方がいいかなって思っただけです」
志織はうれしかった。
勝手に部屋で食事を作るなんて嫌がられるかと思った。
だが最初は驚いていたが、今は坂下も手伝ってくれることもある。
仕事を持ち帰りリビングでパソコンをひらいているときもあって、それを見ながら志織が夕食の準備をする。
「明日は、何か食べたいものありますか?」
「うーん、肉じゃが……かな」
「坂下さんって、素朴なものが好きですよね」
「安心するっていうのかな、洋食も好きだけれど和食が落ち着く」
「サラさんは作ってくれたのですか?」
こうやって話しをしていると、サラのことを聞くことも増えてきた。
彼のことを知るには、サラのことを知ることが一番だ。
志織は見えない妻の存在が、知りたくもあった。
自分の好きなひとは、どんなひとが好きなのか。
知らないでいるよりも、知っているほうが怖くないと思ったのだ。
「サラは、あまり食事が得意ではなかったかな。だから俺が料理を作って、彼女に食べさせていたことも多くて」
「坂下さんってやっぱり料理が上手ですよね。手際がすごくよかったから」
「まあ、ひととおりはね。親が亡くなってサラに引き取ってもらってからは、早く自立したかったのもあるよ。何でも自分でやるようにした。はやく大人になれば、何か変わるかと思ったんだろうね。若かったよ」
サラのことを語る坂下は、いつも寂しさをかかえている。
そんなときに一緒に寂しさを共有できるのは、自分だと強く思う。
一人で寂しい坂下をいやしてあげられるのは、自分なのだと言い聞かせる。
いつか坂下が自分を見てくれると、わずかな希望をもちたかった。
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