いつもとは違った坂下との抱擁。
志織は気がつけば床に身を倒され、坂下の腕の下にいた。
それからは記憶があいまいだ。
ただ熱く、今までの坂下とは思えない熱を感じた。
「好き」
坂下が不意に告げた。
どこかためらいのある色を含んだ。
志織を目を見開く。まさかこんな言葉を言われるなんて、予想もしていなかった。
そして、キスをした。
上司である坂下と、会社の外で逢瀬を交わし、こうやって抱き合う。
少し前の自分なら考えたこともなかった。
今までの彼氏と一緒なら誘われるまま、ベッドやホテルに行く。
朝になれば、あいさつがわりにキスをされる。
今までの恋愛と同じのはずなのに。好きな人ができて、キスをする。
それだけなのに――――。
「わたしも、好きでした」
志織は、気持ちがおさえられず答えた。
酔っていたからかもしれない、志織もいつもならもっと恥ずかしさがあったはずだ。
でも、今は何も考えたくなかった。
もし、坂下が既婚者じゃなかったら?
もし、坂下の妻より自分が先に出会っていたら?
いつも不意に感じる気持ちがあった。
それをかなぐり捨てても、気持ちに流されていたかった。
彼を思う気持ちだけを感じていたかった。
世間のしがらみや、ルールなんて今は考えずにいたい。
志織と坂下は肌を重ね、ベッドに一緒に入った。
志織は彼の腕に抱かれ、暗くなった部屋から見える、外の街頭を見つめていた。
高層階にあるマンションの窓からみえる、街の光。
今夜だけでも、二人だけの時間を感じていたかった。
*****
「坂下さん……」
「ごめん、起こした?」
シャワーを浴びる音がした。
志織はベッドで目を覚ますと、傍に坂下がいないことに気がついた。
抱き合って、うとうとと眠りについてしまった。
何かの夢を見た気がする。
でも思い出せない、幸せとはいえない夢。
どこかもやもやした気持ちを抱く夢だった。
「いえ……、わたしもシャワー浴びようかな」
「ゆっくりしていて。俺、仕事があるから」
一人でベッドにいるのも気が引けて、ベッドから出ようと思ったが止められた。
坂下は仕事を持ち帰っているらしく、リビングに行って、後片付けをし始めたようだった。
志織も服を拾い上げて、シャワールームへ行った。
今、何時だろう。
「体が、まだ熱い……」
坂下に触れられた体。ほのかに残る、彼との情交のしるし。
志織はさっとシャワーを頭から浴びる。
部屋から出たら、このぬくもりを忘れなければならない。
こうして、自分の気持ちのままに愛されたのだから。わがままを優先して、抱かれたのだから。
「好きでいて、いいのかな……」
体の関係をもてば、自分の気持ちはふっきれるかと思った。
だがそんなことはなかった。
好きと言われ、抱かれ、満足などしなかったことがわかった。
余計につらい。
だけれど、わがままを言って坂下を困らせたくなかった。
「今回だけ、だから……」
好きな気持ちは持っていてもいいだろう。
だって、それじゃあまりにも自分がかわいそうだ。
そう、好きでいるだけなら誰にも迷惑をかけない。
関係を続けるなんて口にしない。
坂下の都合のいいときにたまにお酒を飲んだり、そして出かけたりして。
志織は関係をもってしまった後の罪悪感と、それでもなお、彼と一緒にいたい気持ちで押しつぶされそうだった。
*****
坂下がパソコンで仕事を済ませているのを横目に、残り物で朝ご飯を作った。
二人で囲む朝食、朝のコーヒーの香りがすてきだ。
坂下は仕事をしていると、割増しでかっこいい。
なめらかに滑るキーボードの指先が、きれいに見える。
彼は意外と繊細な指先をしている。
「久しぶりに朝ご飯をゆっくり食べた気がするよ」
「そんなたいしたものじゃなくて……、でもこんな朝もいいですね」
初めて過ごす朝の風景は、やっぱり気恥ずかしい。
坂下にTシャツを借りて、昨日来ていた服は洗濯をした。
もう少しで乾燥機が止まるだろう。
「送っていかなくていいの?」
「はい、帰りに買い物もしたいので。お仕事、優先してください」
坂下との距離は格段に縮まった気がする。
名前で呼んでもらってもいいと言われたが、志織は遠慮した。
名字で呼ぶうちは、まだ引き返せる気がするのだ。
心は彼に囚われているが、少しだけ抵抗してみた。
志織が名字呼びで一線を引けば、坂下も志織を名字で呼ぶ。
まだ大丈夫、まだわたしは大丈夫。
志織はこれ以上、関係を深めてはいけないという気持ちで揺れ動く。
「じゃあ、これで」
簡単にキッチンの片付けをすると、志織は乾いた服をきて、マンションから出ることにした。
今日は休みでよかった。
もし仕事だったら、志織は休むしかなかったと思う。
きっと平常心では業務をできないだろうから。
「また、連絡する」
「はい、また」
次回会うときは、どんなタイミングなのだろう。
一時の勢いで関係を深めてしまった、でもこれ以上はいけない。
そう思いながらも、どこかに予感がある。
また流されてしまって、ここに来て朝を迎えてしまう想像がたやすく浮かぶのだ。
感情では、彼を好きな気持ちをもてあまし続ける。
会うだけなら、まだ大丈夫だよね?と誰に聞くわけでもなく、自問自答した。
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