【オフィスのアネモネ】第9話「事情」

オフィスのアネモネ9話

 涙を流してキスをせがんでも、坂下は志織の気持ちにはこたえてはくれなかった。結局その場でなだめられた形になり、アパートまで送ってもらった。次の日も変わらずに続く会社のあとの食事。メールもしていて、自動販売機の前で愚痴をこぼすこともある。

 

 しかし、ひとつだけ変わったことがあった。それは、小料理屋からアパートまで行く道で、手をつなぐことが多くなった。別れるときは、志織からキスをせがんだ。

 

もちろん激しいものではなく、坂下の唇にそっと合わせるだけだ。ただ、坂下はこたえてはくれない。困ったように笑い、頬にお返しのキスをしてくれるだけだ。

 

「坂下さん、ことあと少し飲みませんか?」

 

 今日も小料理屋へいく流れだったが、志織は坂下とゆっくり話しをしたかった。彼との距離が縮まるたびに、『なぜ?』という気持ちが大きくなるのだ。その疑問とは、坂下の不思議なひとり暮らしのことだ。

 

「わかった。話がゆっくりできるところがいいね」

 

「はい」

 

 坂下が連れていってくれたところは、個室のある静かな割烹料理店だ。たぶんいつも行っている小料理屋より、値段が高そうな店である。ただしずかな庭園があるようで、接待などでも使われる店なのかもしれない。

 

 着物をきた女性が中を案内してくれ、座敷席に座った。仕切りがある部屋であるから、ゆっくり話しができそうだ。坂下がメニューをみて注文をしてくれ、お互い顔を合わせて話すことになった。

 

「坂下さん、こんな立派なところ」

 

「いや、いつも行き慣れた店ばかりで悪いと思っていてね。いつも付き合わせてしまってばかりだから。なかなかゆっくり話す機会もなかったからね」

 

「はい……」

 

 志織の心のなかに広がる、疑問を彼に確認したい。そして報われない恋心に対して、報われたいと叫ぶ感情もつらくなってきた。誰だって好きなひとと結ばれたいと思う。例えそれが、世間とは外れたことだとしても。頭ではわかっていても、自分のこころなんて操作できない。苦しいのだ。

 

「坂下さん、結婚をしているって聞いて。すごく戸惑いました……でも好きな気持ちは変えられません。だから、少しでも事情を聞きたいです。結婚しているのに、なぜひとり暮らしなのですか?」

 

「話せば長くなるかもしれない。大丈夫かな」

 

「はい、明日は休みですから」

 

 明日は土曜日だ。会社は休み。今夜なら坂下の話をゆっくり聞くことができる。彼を理解したい。もし彼がさびしいというなら傍にいたい。

 

「彼女……サラとは、長い付き合いなんだ」

 

「サラさん?」

 

「俺の奥さんの名前だよ。戸籍上では奥さんだけれど、俺たちの関係はもっと複雑かもしれない」

 

 坂下はぼんやりと宙に視線を向けた。

 

坂下は小学生のとき、両親が亡くなった。そして親戚をたらい回しになったときに、出会ったのがサラさんだった。

 

「結局、血のつながりなんて意味がないものだって気がついたね。サラは、少し変わった女性だった。俺と十歳くらいしかかわらない。そんな俺を育てるなんて言い始めてね」

 

 サラさんも両親がいなかった。しかし坂下と違ったのは、両親が残した莫大な財産があったということだ。サラは坂下と引き取ったとき、既にプロの音楽家としてデビューもしていた。

 

「サラは、子どもらしいかと思えば、すごく達観した考えの持ち主でね。俺もサラの影響で音楽を始めたんだ。ただ才能がない子どもだったからね、その道はあきらめたけれど」

 

「サラさんって、もしかして……坂下さんがCDショップで見ていた『SARA』さんですか?」

 

「うん、彼女はヨーロッパが生活の拠点。だから日本にはいない」

 

「でも、全然連絡とかもなさそうだし。マンションには気配だって」

 

「そう、彼女の気配はまったくないね。だって彼女の居場所はここじゃないから。俺たちは一緒に生きるって意味での運命共同体みたいなものかな。俺を大学まで出してくれて、育ててくれたのは彼女。俺がわがまま言って、結婚までしてもらった」

 

「そんな、簡単に?」

 

「彼女にとっての結婚なんて、紙切だけもので。意味なんてないんだよ。でも俺は違う。もし何かあったとき、彼女の家族でいられるのは俺だけだから」

 

 坂下が話しているのをみていると、寂しさの裏側に強い恋心を感じた。坂下は強い気持ちをサラさんに向けているのが伝わってくる。感情をあまり表にださない坂下が、こんなに執着をみせる彼女。志織は戸惑いと嫉妬で苦しくなってきた。

 

「だったら、坂下さん……サラさんとなんで一緒にいないのですか?」

 

「サラには恋人がいてね。二人の邪魔はできないから」

 

「恋人?」

 

「サラの恋人は女性で。サラの恋愛対象は、いつも決まって女性だから。俺を異性として好きになってくれることは決してない」

 

「え……」

 

「サラの無垢なところが、井口さんに似ていて。サラも仕事がうまくいかないとき、幼い俺に愚痴をこぼしたものだった。でも彼女は成功をおさめて、俺が独り立ちしたら、傍から離れてしまった」

 

 坂下の視線がこちらへ向けられる。坂下が見ているのは、志織を通して、昔のサラと重ねているのかもしれない。志織をそばに置くことで、報われない恋の行き場をごまかしているようにも思えた。なんて哀れなのだろう。志織はそれでも坂下を好きな感情に、自分で自分を哀れんで、思わず苦笑いを浮かべた。

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